思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

情報化された知 と 心身全体による会得

2011-01-05 | 恋知(哲学)
 活字・音声・映像の溢れるような情報の中で、私たち現代人は、〈情報化された知〉と〈心身全体での会得〉との相違をあまり自覚しなくなっているようです。

 このことが、子どもたちの教育の場において深刻な問題を生みだしています。
いわゆる東大を頂点とする「エリート校」に入るには、小学校高学年から週4~6回は進学教室に通わなければならず、なまの直接経験をもつ余裕は極端に少なくなります。記号や観念の操作が優先され、〈五感〉を使っての思考錯誤は、時間と労力のムダとされます。

 このように育てられた人間は、心身全体による豊かな直接体験という拠り所がないために、心の内側からは〈確信=自信〉がやってきません。物事を疑い、確かめる最終の根拠である『内在』としての知覚を希薄化させる結果、生き生きとした現実感を消失させてしまうのです。

 これは、現代の「エリート」と呼ばれる人間にも共通する問題です。〈意味〉の探求をパスして、単なる事実学を積み上げてきた彼らは、内的には確信が得られないために、権威ある他者に同調してもらうしかありません。日本の「エリート」とは、立体から見れば影にすぎない二次元世界のチャンピオンでしかないのです。

 この「死んだ知」の収集家を褒め称える集団ヒステリーが、私たちの社会全体を蝕んできました。



以上は、13年前(1998年3月22日)のミニコミ紙(「手賀沼市民新聞」-我孫子市全世帯に新聞折込で配布)に載せたものです(元の文書は更にその7年前の1991年に竹内芳郎さん主宰の「討論塾」に出したもの)。我孫子市民会館でのわたしと佐野力(当時・日本オラクル社長)さんとの教育シンポジウムー『生きた心と頭のために!受験秀才の時代は、もう終わっている。』の案内として書いた文章ですが、今日ますます声を大にして言わねばならないことと思います。みなさまのご意見をぜひお聞かせ下さい。


武田康弘


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