思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「哲学する」のは、研究者ではなく、生活者です。

2011-01-20 | 恋知(哲学)

たとえば、経済学者は、家計の達人や会社経営に秀でた人ではありません。
それと同じで、
哲学研究者は、哲学する達人ではないのです。
哲学することと、哲学の研究(哲学書の読解や哲学史の知識の獲得)とは異なるのです。

この違いが分からないと、よく哲学することができません。哲学史の知識の有無に囚われていると、哲学研究者(主に大学教師)は、自らを思考の特権者と思い込み、また、知識に欠ける者は怖気(おじけ)づきます。

経済学者は、自分が現実の経済行為の達人だとは勘違いしませんし、経済学を専門に学ばなかった人も、家計や会社経営で怖気づくことはありませんが、こと哲学になると、おかしな思い込みや勘違いが横行するので困ります。

哲学するのは、ふつうの生活者が日々の体験に基づいて行うことであり、専門家=研究者がすることではないのです。

(※下のブログと合わせてお読み下さい。)

武田康弘
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哲学の本質とは、意味と価値を探り創ること。

2011-01-20 | 恋知(哲学)

哲学するとは、過去の哲学書を読むことではありません。

哲学するとは、日常のさまざまな体験を流れゆくままにしないで、「私」にしっかり根付かせること=意味づけ・価値づけを行う意識の働きを活発にすることです。

事実について知ることではなく、物事・事象についてその意味と価値を考えること=「私」が生きる上でそれらはどのような意味と価値があるのかを探り創る知的作業を哲学するといいます。「探る」という分析と「創る」という価値を見出す作業が融合した能動知なのですが、それは、意識せずとも誰でもが日々、していることです。

しかし、事実学と技術知ばかりの現在の日本の知的環境の中で、大学で哲学を講じる教師を含めて、この哲学の本質についての明晰な認識がありません。哲学は、特別な知識や技術とされてしまい、一つの科目としての扱いしか受けていなの現実です。

カオスー混沌の時代こそ、自覚的に哲学することが必要です。それは、何よりも深く「私」を活かし、豊かな悦びをもたらす能動知の営みなのです。


武田康弘

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