思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

10月18日 所沢アークホールでの最終公演・ゲルギエフ・マリインスキーの「悲愴」  カタルシス!

2014-10-19 | 学芸

 

 昨日の所沢アークホールでの
ゲルギエフとマリインスキー歌劇場管弦楽団の演奏会、

 日本公演最後の曲・チャイコフスキーの「悲愴」は、楽章を追うにつれ、力と輝きを増し、悲しみの美が慟哭のパワーに変貌していく終楽章は、異様なほどの迫力で、強音・強打が胸を打ちます。

 ゲルギエフは、西側のソフィスティケートされた音響美ではなく、「悲愴」のもつ理念美を明晰にし、「打ち震える人間の心が世界を支える起点だ」とでも宣言するかのような愛に満ちた理念世界を音響化したのです。

 
強烈な感動、打ち寄せ打ち返す波のようなカタルシス。なぜか、サルトルの浄化的反省という言葉が想起されます。

 最後の一音が消えて、沈黙が支配しました。誰も拍手できないこの30秒間の「沈黙の音楽」は、震えるような感動をもたらしました。周囲を見ると、多くの女性たちは泣いています。静寂の後、ブラボーと拍手の嵐が収まりません。オーケストラの団員が全員いなくなっても、まだ拍手は続いていました。

 この演奏会の後、驚いたことにサイン会があり、長蛇の列。
おそるべきゲルギエフ、現代のカリスマが、にこやかなギョロ目で若手ピアニストと共にファンサービス。

 わたしは、15日のサントリーホールにつづき連続でゲルギエフとマリインスキー歌劇場管弦楽団の演奏会を体験してしまいました。ただ感動あるのみ。

 


 武田康弘

 

 

追記

昨日(19日)の大学クラスで、「悲愴」の終楽章を聞きました。
以下の四枚のCDです。

 マゼール指揮 クリーブランド管弦楽団(1982年録音)

 まず、クリーブランド管の名技性・完璧な合奏能力を活かした音のよさに魅せられます。
マゼールの天才を如実に感じるのは、音型の微妙な差異まで完全に再現してみせるところです。まるでクリスタルグラスのような透明な輝きの中で、「死」は浄化された美として表されています。現代的な都市における死。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団(現在の名称はマリインスキー・1997年録音)。

  厚く実在感のある響きで、弦も管も表情豊かです。切々と生と死のドラマが描かれ、ラストの死の描写は、深い悲しみとして現わされています。
「死」は《慟哭のパワー》により昇華され、聴く者にカタルシスをもたらす演奏で、とても感動的です。ロシアの大地に眠る。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 小沢征爾指揮 ボストン交響楽団(1986年録音)

 実に丁寧で細やか、繊細でスッキリとした響きで美しい。感傷的な悲しみを表していて涙を誘います。耽美的で純音楽的とも言える演奏ですが、残念なことに、死に向き合うのではなく、親しい人が死んで悲しい、というレベルの表現に留まっています。感情は豊かでもフィロソフィがないのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 クレンペラー指揮 フィルハーモニー管弦楽団(1961年録音)

 フィルハーモニー管の音には、癖のない表現力の強さを感じます。
小沢とは対照的な演奏で、強く、深く、巨大な造形美に圧倒されます。チャイコフスキーのもつメランコリーではなく、人類的なロマン性を感じる演奏です。死は、形而上的な世界として表現され、個人性を超えています。
曲が終わってからの揺り戻しの感動は大きく、感銘度は最高です。ただし、全体を通して聞くと、しなやかさに欠けるため、チャイコフスキーの演奏としては特異ではある。

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする