外から見れば「立派な社会人」、
でも、内側=精神世界は、幼児的なわがままの延長に過ぎない独我論、
周囲にうまく合わせるに過ぎない独我論の形成者は、外から見れば「立派な人」。
残念ながら、日本はどうもこんなふう。ここから抜け出せない。
エゴイズトを批判する人は、「国家エゴイズト」=愛国主義者。
わが国は、《個人エゴ》と《国家エゴ》の間を行ったり来たりですが、この二つは一つメダルの裏表で、実は同じもの。
戦後の民主主義(普遍的なよきものを追求しない私的エゴ)と
戦前の国体主義(皇族は神の系譜=天皇現人神という国家エゴ)の往復では、どうしようもありません。
「私」のわがままを否定して「愛国主義者」になるのでは、公共人はなれず、国家主義者に陥ります。
公共人となり公共世界を拓くには、
「私」のわがまま、 (個人エゴ)
「仲間」のわがまま (仲間エゴ)
「家族」のわがまま (家族エゴ)
「組織」のわがまま (組織エゴ)
「国家」のわがまま (国家エゴ)を超えなければなりませんが、そのための基本条件はなんでしょう。
皆が言うからという「一般的なよい」につくこと、
私の考えは絶対とか神の言葉は絶対だとする「絶対的なよい」につくこと、
ではなく、
腑に落ちる=深い納得がもたらされる「普遍的なよい」につくことでしょう。
「私」のわがままを肯定するのではなく、
「私」の抱く善美を肯定するのがほんとうの生き方。人間のよき生=恋知の生。
「私」の抱く善美をしっかり肯定すると、善美の内実は、だんだんと豊かになります。善美という座標軸は、より確かなものになっていきます。
自他の納得がえられる「普遍的なよい」をつくるには、「私」の抱く善美を肯定することが基本条件です。それなくしては、何もはじまりません。まだ、はじまっていないかな?(笑・困)
繰り返しますが、
「私」のわがままを肯定するのではなく、
「私」の抱く善美を肯定するのがほんとうの生き方。人間のよき生=恋知の生。
武田康弘