わたしは、こう思う、こう考える、
というときの「こう」の内容は、どのようなものであろうと、それを言った人「個人」の思うこと・考えることであり、それ以外ではあり得ません。
いやいや、「個人」ではなく、「学校」の意見だ!?「国家」の意見だ!?「人類」の意見だ!? 組織や、団体や、共同幻想体が、意見をいうわけはありませんので(笑)、誰かさんの主張ですから、その誰かさん「個人」の意見であり、意識です。
話し合って、合意した意見というのはありますが、それもまた個人と個人が話し合うのであり、お化けのような抽象的人間の意見や意識!?などあったらビックリ~~
これは、当たり前の話ですが、この当然の前提を踏まえない人、自覚しない人、おかしな妄想に憑りつかれている人がいるので、狂気の国家主義(国家という実体がある)が生まれてしまいます。
たとえ家族であれ、その四人なら四人の「個人」が存在し、それぞれ「個人」の異なる意識があります。もちろん、時間や場所を共有していますし、愛情があり、他よりも親しいですし、多分に利害を共有してはいますが。
個人個人の意識があり、個人個人の想いがあり、個人個人の考えがある。これは誰も覆すことのできない人間の生の原理中の原理です。
そして、個人の象徴は恋愛であり、ゆえに、フィロソフィー(恋愛+知)の神は、エロースなのです。
もしも「日本に生まれた人は、〇〇のように考え、行為しなければならない」としたら、【全体主義】という根本的な人権侵害となります。もちろん憲法違反であり、国連憲章違反です。わたしは個人ですし、あなたも個人です。これを忘れたら、とんでもないことになります。それこそ戦前の「皇室は神の系譜で天皇は現人神だ」とするカルト教=国家カルトに逆戻りです。もちろん、このような国体思想=靖国思想も、ある特定の「個人」の意見であり、意識ですし、わたしのフィロソフィーや社会思想も「個人」の意見です。
自民党は、新憲法案で「個人」という言葉=概念を削除し、「人」に代えました。アナクロニズムに「超」がつきます。底なしの思想バカというほかないでしょう。
武田康弘(フィロソファー・参議院「行政監視委員会調査室」客員ー国会職員に「日本国憲法の哲学的土台」を講義)