思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

【恋知】のすすめ。理論言語ゲーマーではなく、想い、考え、判断し、価値をつくる「私」。

2016-09-13 | 恋知(哲学)

アンリ・ルフェーブルが、『総和と余剰』のなかで、なんでも理論言語で出来るわけはなく、芸術に任せる べき領域があり、それは芸術に任せるべきだ、というのを学生時代に読み、ずっと記憶にあります。

子や孫を育てている(いた)経験からも、人間存在について論理的に考え・語れる分部は、限られた範囲に過ぎないという実感を、強く持ちます。

その自覚が優れた論理を可能とする条件だな、と思うのです。

その自覚が薄いと、論理が存在を上回って、人間がよく生きることとは無縁の言語論理のゲーマーになるでしょう。

趣味としてゲームをするのならよいでしょうが、ゲーマーの方が偉い(上位)存在だと思うようになれば、処置なしの「病気」です。



人間存在のありようを知り、判断し、
どのように生きるのがよいかを想い、考え、
私の人生の意味や価値をつくり出していく。

そういうフィロソフィーの営みを、
専門的に難解な言葉を駆使して、固い理論言語だけで行えると信じる従来の「哲学宗教」(言語中心主義)はすでに終わっているのではないでしょうか。それは、ハイデガーの「敗北宣言」(1966年シュピーゲル対談)が象徴しています。

みなが、自分自身の日々のさまざまな体験に照らしながら、想い、考えてみる。

ほんらいは、その営みをサポートするために、フィロソファー=恋知者と命名される人がいるのでしょう(ソクラテスのいう産婆役)。しかし、想い、考え、決断し、実行するのは、それぞれの「私」であり、教師でも専門家でも宗教家でもありません。

このような新しいフィロソフィ―の意味と価値を明晰にし、それを提示し実践していくことは、なによりも必要な営みである、とわたしは思っています。

それが「恋知」という主張です。

詳しくは、《「恋知」とは何か》 をお読みください。ああ、明日の水曜日は、「恋知の会」です。



武田康弘

 

 

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