アンリ・ルフェーブルが、『総和と余剰』のなかで、なんでも理論言語で出来るわけはなく、芸術に任せる べき領域があり、それは芸術に任せるべきだ、というのを学生時代に読み、ずっと記憶にあります。
子や孫を育てている(いた)経験からも、人間存在について論理的に考え・語れる分部は、限られた範囲に過ぎないという実感を、強く持ちます。
その自覚が優れた論理を可能とする条件だな、と思うのです。
その自覚が薄いと、論理が存在を上回って、人間がよく生きることとは無縁の言語論理のゲーマーになるでしょう。
趣味としてゲームをするのならよいでしょうが、ゲーマーの方が偉い(上位)存在だと思うようになれば、処置なしの「病気」です。
人間存在のありようを知り、判断し、
どのように生きるのがよいかを想い、考え、
私の人生の意味や価値をつくり出していく。
そういうフィロソフィーの営みを、
専門的に難解な言葉を駆使して、固い理論言語だけで行えると信じる従来の「哲学宗教」(言語中心主義)はすでに終わっているのではないでしょうか。それは、ハイデガーの「敗北宣言」(1966年シュピーゲル対談)が象徴しています。
みなが、自分自身の日々のさまざまな体験に照らしながら、想い、考えてみる。
このような新しいフィロソフィ―の意味と価値を明晰にし、それを提示し実践していくことは、なによりも必要な営みである、とわたしは思っています。
それが「恋知」という主張です。
詳しくは、《「恋知」とは何か》 をお読みください。ああ、明日の水曜日は、「恋知の会」です。
武田康弘