思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

憲法研究会の七人のプロフィール

2017-08-20 | 社会思想

民の英雄、共和主義の民主主義者、高野岩三郎の評伝を白樺教育館の大学クラスではじめました。
予備知識として、「憲法研究会」の7人について、以前にわたしが研究して簡潔にまとめたプリントを使いましたので、再録します。

 憲法第99条の意味と価値ー民間人による草案だからこそ、名実ともに「立憲主義」なのです。

 2011-10-03 | 社会思想

  現『日本国憲法』の骨子は、「憲法研究会」を結成した民間人7人による憲法草案が元になっていますが、この草案をつくった7人とは、まことに近代民主主義の柱である「立憲主義」を体現するにふさわしい人たちでした。

【近代民主主義における憲法】とは、主権者である国民が、政治家・裁判官・行政マンなどの公務員に対して、その遵守と擁護義務を負わせるものであって(わたしたち国民が立法権・行政権・司法権を行使する者を縛る=『日本国憲法』第99条)、為政者が国民に与える【国家主義による憲法】(天皇が臣民に与えるという『大日本帝国憲法』)とは根本的に異なります。

 これを立憲主義と呼びますが、『日本国憲法』の基本思想は、まさしく主権者たる国民の意思をまとめる(立憲)にふさわしい人々によって草案がつくられています。

 彼らを簡単にご紹介します。

まず「憲法研究会」でただ一人の憲法学者であった鈴木安蔵は、戦前は悪名高き「治安維持法」違反の第一号(最初の犠牲者)として逮捕・投獄された人(社会主義的な研究を行った京都大学の学生が多数逮捕された)。

この憲法研究会を立ち上げた高野岩三郎は、東大教授を辞し、民間の「大原社会問題研究所」(白樺派・柳宗悦らを支援した大実業家の大原孫三郎により設立)で活躍。1928年に結成された日本大衆党の委員長。戦後は天皇制撤廃(日本共和国)を主張。戦後に改組されたNHKの初代会長となり民主的放送を目指す。

森戸辰男は、クロポトキン思想(国家主義とは逆に対等な人々による相互扶助の社会をつくる)を広めようとして東大を追われた(森戸事件・1919年)。戦後は衆議院議員。1947年6月片山内閣・芦田内閣の文部大臣に就任し、教育の徹底した民主化を志向、広島大学の初代学長も務めた(なお、クロポトキンの無政府思想は、白樺派にも大きな影響を与えた。有島武郎はロンドンでクロポトキンに会い、大杉栄(甘粕事件で憲兵に殺害される)を経済的に援助している。柳 宗悦は、相互扶助を相互補助と訳し共鳴)。

杉森孝次郎は、徹底した民主主義者として名高い55代総理大臣の石橋湛山と共に、早稲田大学で田中王道(プラグマティズムの哲学者)に薫陶を受けた哲学徒。「天皇は儀礼のみを行う存在」という象徴天皇制の提唱者。英国の倫理思想を身につけ、学生を愛し、慕われたことでも有名。早稲田大学教授、戦後は駒沢大学教授。

馬場恒吾は、現・早稲田大学の政治科に学んだリベラルなジャーナリストで、読売新聞の主筆の後、社長を務めた。

岩淵辰男は、読売新聞の政治記者。自由主義の政治評論を書く。1944年に早期終戦を主張して検挙。

室伏高信は、雑誌「改造」の特派員としてヨーロッパに渡り、柳 宗悦と同じく「ギルド社会主義」を目がけていたが、柳とは異なり、小集団や地方的なものを否定して国家的なギルドを追求した結果、大東亜共栄圏の思想に基づく戦争を積極的に肯定することになった。しかし戦況が不利となると沈黙し、戦後はすぐに思想を反転させた。敗戦の翌月(1945年9月)に発刊された戦後最初の総合誌『新生』の顧問となり、憲法研究会のメンバーに紙面を提供した。


以上のように、室伏には疑問符がつくとしても、他の6名は「民」を主権者とする「立憲主義」の憲法をつくるにふさわしい人々であったと言えます。

彼らによってつくられた憲法草案は、当時の日本政府や政党、東京帝国大学法学部の思想とは大きく異なるもので、主権在民に基づく人権と民主主義思想による国家(新生・日本)をつくるための礎を提供するものでした。



武田康弘

 



 

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