思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

縁を自覚しない人生は、平板であり、不幸です。忘恩の人になります。

2019-09-14 | 学芸

 抽象的に「みなさまのおかげで」と言う人は多いが、
では、具体的に、いま自分があるのは? 直接的な縁、大元の縁は誰か、何か、を自覚して生きる人は少ないようだ。
いま自分がしていることは、何をキッカケに、誰の影響で、どのようにしてはじまったのか? なぜ続いているのか、あるいは切れたのか。

 いつもそうした縁を考えて発言し、行動することは、極めて重大だ。よく生きるための基盤と言える。縁をたどれば無限だが、誰のどのような発話や行為により○○が始まったのかを意識することがないと、夜郎自大の人間に堕ちる。
 そうなると、善美とは無縁となり、公平・公正は体裁=形だけとなり、毒々しい自我欲望を湧出する人間となるが、本人はそのことに無自覚なため、処置なしとなる。

 できるだけ金品を自分のものにする、できるだけ権力を自分のものにする、できるだけ自分を偉いものにする、それがその人の生きる意味=価値となる。 本音としては利害損得が一番であり、イデーをつくり育てるとは無縁、善美も公共も言葉だけ、よき意味も価値もない時間をいたづらに生きる存在に堕ちる。

 それは、その人が話し書く言葉ではなく、その人が実際にしていることに現れる。

 縁の自覚化は、何よりも一番必要で大切。無限の縁をすべて自覚することは不可能だが、直接の、大元の「縁」はなにか?の自覚は誰もが持っているので、反省すればすぐに分かる。自分を自分で騙(だま)す自己欺瞞に陥っていない限りは。

 あなたの言う言葉ではなく、あなたの行為、実際の小さな行為の一つひとつにあなたの存在のありのままがあぶり出しになる。
 縁を自覚しない人は、忘恩の人となり、平然と恩を仇で返す人へと堕ちる。恐ろしいことだ。

 

 ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)の修行の果ての悟りは、すべては縁により起こるという「縁起の法」ですが、ここでブッダの言う「縁」とは、無限のつながりであり連関であり出会いであり、突然であり慢性であり、偶然であり必然であり・・・言葉による定式化の困難な「縁」により「実体」と思われているものはつくられていて、固定した実体は存在しないと看破したのでした。ずっと後に竜樹はそれを「空」と呼び、色即是空・空即是色として説明しましたが、一言で「縁」と言い切ったブッダの卓越にわたしは感心します。

 その意味での「縁」とわたしの言う「縁」とは同一とは言えませんが、上記の私の思想は、やはり「縁」という言葉がピタリで、他の言葉には置き換え難いものです。



 ※ 以上は、9月11日(水)の「恋知の会」でお話ししたことです。



武田康弘

 

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