思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

日本人が戦前への反省を曖昧にし、誤魔化してしまう大元の原因は、天皇裕仁の「退位さえしない」という無責任な行為にあるのです。

2019-09-28 | 社会思想

 ※以下は、「私と共和制」-楽しい公共社会を生むために(武田康弘著) からの抜粋です。


 と
もあれ、敗戦後、主権者が天皇から国民へとコペルニクス的転回をしたわけですが、これを曖昧にし、近代日本の歴史の意味をカオス化させたのが、昭和天皇裕仁の【退位さえもしない】という驚くべき行為でした。  

 憲法の全面改定により「人権思想に基づく民主制の国」へと変わったにも関わらず、裕仁がそのまま天皇という地位に留まった為に、日本の近現代史は混沌として意味の分からぬものとなりました。現人神!であった戦前も「人間宣言」をして人間!になった戦後も同じ「昭和時代」と呼ばれることになったのです。 
 

 これは、日本人全体の歴史認識を大きく狂わせてしまい、戦前の反省、その思想と行為の検討や批判を困難にしてしまいました。戦前は、学校で、天皇は生きている神と教えられていたため、神国日本は絶対に負けないと信じ込み、どのような悲惨な戦いでも白旗を上げないで全員戦死を選ぶことをよしとし、いつまでも戦争を続けましたが、その結果、最後は2度の原爆投下(米軍は13発を用意して日本全土を壊滅させる作戦でした)でようやく「ポツダム宣言」を受諾して敗戦したのでした。それによる戦後の根本的な改革=出直しだったのですが、裕仁は、退位を勧める人たちの声を無視して天皇の地位に留まったために、戦前の明治天皇制と戦後の象徴天皇制との相違が曖昧となり、日本人みなの歴史意識と社会と政治への考え方を歪めてしまったのです。   
 

 
これは大きな負の遺産で、いまの安倍自民党政府に見られるように「戦前思想」への回帰-明治礼賛の政治を復活させてしまう原因ともなっています。明治維新以降敗戦までの「天皇現人神」と、敗戦後の象徴天皇制との次元の相違がボカされて混沌とさせられていますが、いまの天皇の明仁さんや皇后の美智子さんは、それへの大きな違和をもち出来る限りの抵抗をしてきました。その最大の行為が「生前退位」です。岩倉具視や伊藤博文らがつくった天皇教(=靖国思想=国体思想)では、天皇は神であり、その死によってのみ時代は変わる=新元号となるので、退位は認められないとするのが明治から続く思想と制度でしたが、それを壊したのが、今回の明仁さんの決断でした。  ただし、「一世一元」という根源悪はそのままですが。

 なお、ここで敗戦時に昭和天皇の裕仁について兵士はどう思っていたかのエピソードをご紹介します。日本人の多くは敗戦後も「天皇現人神」という深い洗脳が解き切れなかった為に、なかなか表には出せなかった赤裸々な心の声です。
 

 
「天皇はのうのうと生き延びた!」 元兵士の憤りの声ーある証言 (わたしのblog「思索の日記」2018年8月16日から)。 

 わたしの義父の関根竹治さんは、1923年12月に埼玉県蓮田市に生まれた関根家の長男でしたが、2010年8月に亡くなりました。 
 農家の総本家の長男で、頭はしっかりし心も強かったですが、先祖代々の農家の後継ぎでしたから政治思想などは特になく、ふつうに保守的な人でした。政治の話、まして天皇の話などをしたことはありませんでしたが、亡くなる数年前のお盆の時、親戚一同の前で驚くべき発言をしました。   

 
みなで、テレビで、終戦記念の番組を見ていたとき、わたしは、「東京裁判で東条英機が罪をかぶり絞首刑になったが、ほんとうは、昭和天皇に大きな責任があるはず」と発言しました。親戚一同は何も言わずに黙っていましたが、 その時、竹治さんは、大きな声で断固とした調子で「そうなんだ!」「わしら兵隊はみな、天皇は、自害するものと思っていた。」「だが、天皇は、のうのうと生き延びた!!」と言い、赤紙一枚で、無意味な戦争に行かされ、農民は、どれだけ大変な思いをしたか、を話しました。   

 
誰もが口を聞けませんでした。心からの明晰な声、揺るぎない言葉にみな黙るほかありませんでした。始めて聞く竹治さんが話す兵隊たちの思いに唖然となりました。  自害どころか退位さえしないで、最高責任者がそのまま天皇の名で、「のうのうと生き延びた!」ことに、強い憤りをもつ竹治さんの声は、誰の耳にも心の真実を伝えたのでした。

 

 

 

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