思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

天皇制的精神風土(元号はその象徴)の中でのナショナリズムはとても危険です。

2019-09-23 | 学芸

 ナショナリズム(愛国主義)の危険性は、どこの国でも同じですが、とくに日本ではナショナリズムの培養に、皇族(天皇)が利用されるために、恐ろしいまでの絶対化になりがちです。「万系一世」(もちろん史実ではなくフィクション)という想念が流布されることで、「特別国」という意識を植え付けられがちです。

 

 天皇家の方も利用されるマイナスは分かりながらも、儀式により政権を聖化する役割を果たすことによって、超がいくつも付く特別待遇が得られ、それは外国でもそのまま通用しますので、この巨大な利権を自ら手放すことなど思いもしません。 代々の『天皇家』(実際には天皇という名は、平安初期の村上天皇を最後に消え、江戸後期の光格が再び天皇を名乗るまで800年間以上、天皇の称号は存在イしませんでしたが)は、権力を聖化する儀式を執り行うことにより生き延びてきたわけです。権力を直接もつこと(持とうとしたこと)は、ごく稀であり、「国家神主」(思想内容はごった煮ですが、さもさもの儀式をつくり行う)の仕事に自らを特化するという基本戦略を持してきたために、権力者(武士の権力)に滅ぼされることがなかったのです。

 

 中身・内容をもたないのが天皇教です。形式(=儀式)だけがあるというのが彼らがが編み出した「天皇教」という宗教です。明示的な内容を持たないで、その時その場の状況に合わせて生きるというのが最大の特徴です。内容がないので、なんにでも化けられるわけですし、論争になれば、内容には踏み込まず、形式上の問題をクリアーすればよいだけですので、上位者にある自分たちがいつでも勝者となれます。そうなので、中身・内容の進展と豊穣化は得られず、ツマラナイ灰色の世界が広がるだけとなります。人間性の豊かさ、面白さ、楽しさはどこにも見当たりません。

 

 唯一の聖典と目される「日本書記」(「古事記」は正史から除外された)は、7世紀末(673年~689年)に壬申の乱で勝利し、最初に天皇を名乗った天武の命令で、自らの権力支配を正当化するためにつくられた書物でしかなく、思想内容は空疎です。

 

 このように内容がなく形式だけを整えるという思想は、今日までずっと日本人の生き方を支配してきました。例えば、受験勉強に漬かり(パターン知と丸暗記による人間のAI化)東大に入れば、その名前の力=形式力は抜群で、現実的にも心理的にもその「利権」はすばらしい(笑)ものです。中身・内容の魅力ではなく、形式が偉いという思想は、深く日本人の心身を犯してきました。それが幸福をつくらない人間と社会をもたらす深因ですが、有名という言葉にウットリして、自分を平気で売り渡す思考停止になり、精神的自立なきままに一生を終えてしまうのでは、根源的な不幸としか言えません。

 

 ネオテニー(幼態成熟・人は「オトナ」にはならない))という人間の特性を自覚し、自分の身体と頭を用い、体験を踏まえて考えるフィロソフィー=恋知の生が始まらないのは、中身・内容よりも形式が先立つ天皇制的な心性を知らずに身に付けてしまい、その結果、「私」から立ち昇る生き方ができないからといえます。精神の自立がなく、集団同調(ハチやアリの属性)で生きるのでは、ひどく哀れです。天皇教という国家宗教に呪縛されたままでは、実存としての生がはじまらず、魅力ある豊かな存在としての個人が花咲きません。

 

 もうそろそろ、天皇教の呪縛(明治維新がつくった「一世一元」の元号制度はその象徴)から解放され、生き生きのびのび自由、意味充実の人生を歩もうではありませんか。日本主義(天皇教=国体思想)からのコペルニクス的転回が必要です。豊かな一人の人間になろう!

 

武田康弘


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