わたしの思考の前提であり原理となっているのは、
1.特定の主義(天皇教=国体思想や共産主義)や宗教的信念(唯一神=創造主が実在するという信仰)によらないで、内的な自分の体験に照らしつつ、自分の頭で考え、それに従う。
2.人間の意識は定まった本質をもたず自由であることを明晰に自覚する。
3.人間存在は対等であり、生まれによる特権者の存在を認めない。したがって王室や皇室は人類史の残滓であると弁えること。
以上です。 このような思考の原理をもつのが恋知(=フィロソフィー)です。
言語を理解し使用することは人間の生まれ持っての能力ですが、それと同じく、【よい】人や物や事、【美しい】人や物や事への憧れ心をもち、【真実】を知ろうする心を人間はもっています。そのことの自覚が恋知(フィロソフィー)を可能にする条件です。
紀元415年にキリスト教徒たちにより惨殺された女性のフィロソファー(哲学者=恋知者)は、天文学者で数学者でもありましたが、彼女(ヒュパティア)の言葉は、わたしの思考の原理と同じです。
「あなたが考えることで得られる『正しさ』を大切にしなさい、考えて間違えたとしても、考えないことより遥かによいのですから。」
「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」
「神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は信じ込まされたもののために戦うのです。」(英文からの翻訳は武田)
至高の演奏(ノット・東響のモーツァルト交響曲39番)を聴いた後で。
美味しいビールで乾杯! よい音楽と恋知=フィロソフィーは同類です。
(西山裕天君撮影)
武田康弘