★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

情動・心・動物

2025-03-09 23:55:14 | 文学


よろしき人ならばこそ、もしやと言ひはべたらめ、ただ今の一の者、太政大臣も、この君にあへば、音もせぬ君ぞや。御妹、限りなく時めきたまふを持たまへり。わが御覚えばかりと思すらむ人、うちあふべくもあらず」など言ひて往ぬれば、かひなし。おりなむと思ひて、六人まで乗りたりければ、いと狭くて、身じろきもせず、苦しきこと、落窪の部屋に籠りたまへりしにも、まさるべし。[…]「北の方、このたびの御婿取りの恥ぢがましきことと、腹立ちたまふ。宿世にやおはしけむ、いつしかとやうに孕みたまへれば、心ちよげに見えたまふかし。北の方も思ひまつはれてなむ、いみじう誉めたまふめるものを。鼻こそ中にをかしげにてあるとこそ、言はるめれ」と宣へば、少納言「嘲弄し聞えさせたまへるなり。御鼻なむ、中にすぐれて見苦しうおはする。鼻うち仰ぎ、いららぎて、穴の大きなることは、左右に対建て、寝殿も造りつべく」など言へば、「いといみじきことかな。げに、いかにいみじうおぼえたまふらむ」など語らひたまふほどに、中将の君、内裏より、いといたう酔ひて、まかでたまへり。

車の中に閉じ込められた北の方たちは落窪の姫よりも苦しかったに違いないとか言ってみたり、鼻の穴に寝殿を建てられるとか言わせてみたりと、現代に生きていれば「箱男」でも書いたのではないかとも思われる「落窪物語」の作者である。うんこネタが有名な「落窪物語」であるが、そういえば、幼児は矢鱈段ボール箱とかに入りたがるものである。わたくしもそんなだった記憶があるが、やはり個体差がある。かまくらに頭をツッコみたがる同級生も全員ではなかった。――それはともかく、この物語の精神は幼児退行とでもいうものであったに違いない。

今日は情動論のトークセッションをオンラインで勉強しに行った。よく言われるように、情動が前個体的なものだとすると、いずれは個体になるのかもしれない。その前に上のように落ち窪んだり牛車に押し込められたり、鼻の穴に建物を建てたりするのであろうか?それとも我々は個体となってからその個体を広げて解体して行くのであろうか?ここに強い感情が伴うことは確かであるが、それが我々にとって欲動なのか情動なのかわからない。学生にパッションを要求する教師が多いし、そのためには自分がパッションを持っていないと感染しないとか言われることもあるが、この現象は情動の範疇なのであろうか?思うに、赤ん坊の泣き声を我々は蝉の鳴き声と一緒にすることができない。たぶん、情動の理論の底にはそんな感覚が横たわっている。

豹一はぱっと赧くなったきりで、物を言おうとすると体が震えた。呆れるほど自信のないおどおどした表情と、若い年で女を知りつくしている凄みをたたえた睫毛の長い眼で、じっと見据えていた。
 その夜、その女といっしょに千日前の寿司捨で寿司を食べ、五十銭で行けと交渉した自動車で女のアパートへ行った。商人コートの男に口説かれていたというただそれだけの理由で、「疳つりの半」へ復讐めいて、その女をものにした。自分から誘惑しておいて、お前はばかな女だと言ってきかせて、女をさげすみ、そして自分をもさげすんだ。女は友子といい、美貌だったが、心にも残らなかった。


織田作之助は表情を行為で解体し「心」ここにあらずの主人公たちをあたかも動物の感覚にまで還元しようとする如くであり、最後の場面の雨は蛙に降っているようなものかもしれない。しかし読者たちはここになんか「心」を感じる。同じイケメソの話でも、谷崎の「美男」と織田作之助の「雨」ではかなり違う。わたくしは後者がすきである。どうも、蛙のそれのように残った「心」に心を感じる昭和文学に惹かれている性もあるが、谷崎の主人公たちはもっとまともかたちで「人間」的に気が狂っているからである。

私は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します。教育と宗教とは、別物でありますけれども、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。
この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。


――折口信夫「新しい国語教育の方角」


思うに、折口は、教師にも児童生徒にも人間を感じていないのである。宗教に似た心によってなされる教育者の個性とは、蛙のような鋭さを持ったものだ。蛙が落ち窪んだところにいるのは自然に冬眠するからにである。これをポストヒューマンみたいに感じるのは我々が人間にまだ未練を持ちすぎて居るどころか、蛙を差別しているからに他ならない。

人間の組織の内部監査とかいわれるたびに、わたくしは、「アナコンダ」における、アナコンダの食道内部からの視点で飲まれた人間の頭がカメラに向かってくるB級映画最高の場面を思い出す。我々はいつもこのような奇妙なことをやっている。アナコンダの腹に入っていないのにどうしてアナコンダの食道が撮れるのであろう?

「私は勉強する学生よりも、学生運動をする学生の方が好きです」なんていってたのは、どこの誰だい? 大河内一男前総長だよ。それならそれで、愛する学生運動家の吊し上げを最後まで食らって死ねばいいじゃないか。それこそが男としての一貫性だ。言行一致だ。

――三島由紀夫「東大を動物園にしろ」


三島も蛙になりたかったくちである。最近、研究者のアスリート化がめちゃくちゃ進んでいるなというのが、日々の印象である。アスリート化は肉体組織の目的化=人間化である。安部公房がオタク化を予言したとすれば、三島由紀夫はアスリート化を予言的に実践してしかも死んでみせた。アスリート化した研究者は健康になって永遠に三島に負け続ける。清原氏なんかは野球選手の三島由紀夫みたいなものだ。しかも現代医学で生きのびて、あとどうなるかを実践している。三島を超えるのは清原士を措いて他はない。