惣別、傾城買、その分際より仕過ごす物なり。有銀五百貫目より上のふりまはしの人、太夫にもあふべし。二百貫目までの人、天職くるしからず。 五十貫目までの人、十五に出合ひてよし。それも、その銀はたらかずして居喰ひの人は思ひもよらぬ事、近年の世上を見るに、半年つづかざる人無分別にさわぎ出し、二割三割の利銀に出しあげ、主人・親類の難儀となしぬ。かやうになるを覚えての慰み、何かおもしろかるべし。
トノサマバッタともなると殿様であるから、「その分際より仕過ご」すこと気にせずともよいのであろうか。そんなことはなく、そもそも人間の認識にその「分際」があるはずもない。しかし、その分際を仕事に関係づけられてしまう人間――たとえば教師なんかはつい殿様じみてくるものである。
小学校の先生に限らず、先生たちは、教室の中のボス猿たるために相手の戦力を瞬時に見極める力に長けたヤンキーみたいな能力がひつようなところがあり、これはむろん相手の能力を伸ばすとか正確な把握を行うこととは全く別なのだが、それがだんだんと本人のなかでは同一視されてくる。これが危険である。人が予測を超えた成長をしたときにそれをなかなか認めたがらない葛藤を抱えている傾向がある。小中の先生にかなり広範にみられる現象のような気がする。高校だと、大学入試の結果にただ喜ぶようなロボットが生産されて、そもそも生徒への観察力を去勢され、上のような葛藤すら存在しないような人間が時々現れている。そして頼みは自分の学歴とかになっている醜悪さである。
だいたい、先生とか親なんてのは、子供の能力を正確には評価出来ず、未来を信じるみたいな態度を見せながらだいたい適当な判断を下している。さぼっているわけではない、赤の他人というのは、本人と同様、その程度なのである。しかしそれが子供の未来を勝手に決めるとなったら話は別で、子供は彼らをはやめに精神的に見捨てておく必要がある。必要があったら縁を切る必要だってあるのはそのためだ。だいたい、ひとは自分と同じ職業に向いているか否かでしか評価を下せない。学校の先生も例外ではない。小中接続とか、中高接続とかもっともらしいまぬけな試みがあるが、――根本的には、小学校の先生によって優等生と見做された人間が中学生ではそうではない、といった事情があるからだ。大学に入りたての大学生をみて、高校の優等生は高校の先生に幾らか似ているとおもったことは一度ではない。
わたくしは、小学校の先生と大学の先生とウマがあったが、中高と思春期だったから、だけではないと思う。たぶん、小学校の先生となぜうまがあったのかといえば、彼が作家だったからに過ぎない。だから、一見、わたくしが小学校の先生に向いているはずであるという認識が周囲に生じていたのは無理もないが、小学校は楽しかったと同時に地獄的で二度と戻りたくない。かように、わたくしにかぎらず、教員を目指す学生の中には、自分を評価しなかった校種へのうらみがある学生もいて、中学校の小学校化、小学校の中学校化、などなどを思い描いている者も実際にいる。いろいろ思惑はあるわな、と思わざるを得ない。