★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

極私的近代の超克論

2024-11-05 03:29:39 | 文学


モナ・リザの唇もしづかなる暗黒にあらむか戦はきびしくなりて

斎藤茂吉は論争の中ではかなり口が悪いひとで、思うに、彼の実相観入は、対象と一如となってしまうところがあるわけであるから、例えば、プロレタリア文学時代に批判を受けた五島茂になんかにはある意味シンクロしすぎて、その反発から「模倣餓鬼」と口走っていたのではあるまいか。短歌史を講じてみて感じるのは、やはり小説や詩に比べてそこに「批評」を導入するのが難しいというかんじであるが、――しかしこれこそ我々が自力で批評していない証拠なのではないか。実相観入なんて半分、自力ではない典型例である。

だいたい結婚すると、細がテレビ観ながらお菓子を食べているという電波を受信する生物に変態するものであるが、実際は、実相に嵌入されているのは我々の方である。

こういう自明の理が分からない文明は、インターネットを用いてもともと実相観入している世の中を線で繋いで見せたりするもんだからおかしくなるのである。ブリコラージュがあり合わせのものでつくってしまうことであるなら、いまや密室に閉じ込めて電波を遮断でもせんとそれができきないという転倒した状況だ。

映画「猿の惑星」シリーズも好きなので昔から見ているけど、猿がなかなか音楽とか文学をやり始めねえんでこの西洋猿=体育会系=理系映画の野郎め、とにらんでいる。新しい「猿の惑星 キングダム」もみたけど、あいかわらず、テクノロジーと革命(暴力)のことしか、猿も人間も考えていない。鷹をてなづけるまえに恋の歌を唸るだろう普通。

そういえば、「猿の惑星」においては、食糧の問題がちょっと曖昧になっているように思う。その猿のモデルと云われている日本人が、炭水化物に炭水化物を重ねて食事しがち(ラーメンライスとか)なのは実に異様というのは、前から聞くけど、正直、わたくしたくさんのお米と漬け物だけみたいなときが一番体調はいい気がするのだ。人生的にどうだかはしらんが。。。たとえば、仏蘭西料理のコースなんかでも、パンがうますぎてたくさん食べてしまい、その後で出てくるメインディッシュとかスイーツは意識なくしながら必死に食べるみたいなことになっている。自分的には、パンの後に納豆と御飯を出して欲しい。ちなみにわたくしはお好み焼きとお寿司があまり好きではない。嫌いではないんだが。二十歳までにあまり食べていないので、食べ物として体が認識していないのではなかろうか。

水木しげるの漫画は、コマのあいだに独特な走馬燈みたいな間があって動きがないようで動いているようなかんじが、アニメーションになると動いているだけになっている。我々の生は、このように、和歌の如く――、かくかく動いているのを、なめらかに動かされている。

ドベゴンズドジャースベイスターズ勝ちにけり世はいつも花盛り

たしか明治末期の、尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に、もはや「なり」とか「なりけり」で考えないんだよおれらは、みたいなところあったとおもうけど、じっさいのところどうなんだろうな、「なり」とか「なりけり」で考える人はいたような気がするのであるが。いまも使えばそう考える人が出てくる。