★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死に顔や寝顔まで、にせ物は

2014-04-13 23:18:43 | 文学


「死に顔や寝顔まで、にせ物はまねことができぬはずです。Pのおじさんは、春日町の空家にいた女の死に顔を見て、たしかに川上糸子だと判断なさったでしょう。だから、それが本当の川上糸子だったのです。
 それに、悪漢たちは、川上糸子が死んだということを、警察の人に見せたかったのです。そうして、さらにその死骸を隠して、わざと事件を紛糾させたかったのです」
「何のために?」
「さあ、それはよく分かりませんが、あるいは単に、彼ら誘拐団の威力を示して、警察をからかうつもりだったかもしれません」
「君のところへ電話をかけたり、糸子の死骸の上に君宛ての名刺を置いたりしたのも、やはり君をからかうためだったろうか」
「無論そうでしょうが、僕はその点がまだはっきり理解できません。僕をからかうのが不利益であることぐらい、彼らも知っているはずです。だから、僕のところへ電話かけたり、僕宛ての名刺を置いたりしたのは、果たして彼ら誘拐団の本意であるかどうか疑わしいと思います。

――小酒井不木「深夜の電話」


……戦後のスターが、素性や過去の不利をものともせず与えられた立場を世の中相手に屹立してがんばるというキャラクターだったとすると、(たとえば、美空ひばりとか星飛雄馬とか……王選手だって、中国人……)、現在はそのあたりは居なくなったかもしれない。少なくとも、音楽や野球の業界にはいなくなった気がする。芸人にはまだいるかな、有吉とかマツコとか(←忙しそうで体調が心配)。彼らはやはりある種お手本でありかつ大衆の自画像だったわけである。最近、新たに台頭してきたのは、明らかにちょっといまいちな能力の持ち主であり過ちを今もやらかしていそうなんだが、開き直るタイプの人たち――、安倍ちゃん、偽楽聖、おぼちゃん、(ちょっと前ならホリエモン)といったスターたちである。やはりこれはわれわれの姿だと言って良いと思う。われわれはこの十年間ぐらいの間、予想を超えた出来事に傷ついてきている。それは人間が過去の人間ではなくなっており、突然信用できなくなったような出来事であり、その恐怖を、もしかしたら、安倍やなにらやで――その苦しい一貫性への苦闘の劇で――慰撫しているのかもしれない。ただ、こんな反省をすべての人々が意識するほど世の中甘くはない。根本的に「死に顔や寝顔まで、にせ物はまねことができぬはず」というのは、推理小説の現実性に過ぎず、われわれの日常ではそんなこと「ばかり」起こっていると見做すべきである。