テレビで、東大の院生の古市氏などが進行役をしている「ニッポンのジレンマ」という番組があるのだが、むかし、十代しゃべり場?という番組を偶然見たところ、全員、「勉強できないので悩んでるのに、悩んでるので勉強が出来ないと思っている」あるいは「なにも面白いことが浮かばないので、他人に八つ当たりしてヒントをもらおうとしている」、現実的な真の抑圧を口に出来ない心のひん曲がった人間たちがしゃべりあっているのをみて、心底絶望してテレビを消した経験があるので――、比較的若い人たちが議論する古市氏の番組もその類ではなかろうかという危惧があり、一度も見たことはなかったのであるが、なんか今日は怠いので見てみた。「大学論」だったしね。
なんだ、案外、商人が混じっている割には、彼らも含めて普通のアカデミシャンばかりではないか。グローバル化で使えることばっかりやっててもしょうがない、基礎教養がないやつがコミュニケーションなんかとれるわけねえじゃん、インターンはやくやめろよロック・ルソー知らないやつが何やっても意味ねえよ、大学の改革(笑)がエビデンスを示さずに行われております(タスケテ~)、大学に入ったら高校よりも勉強してないとかむしろ国際的に孤立しすぎ、推薦入試で入ってくる学生って学力ないから駄目だよね、面接がマニュアル化するから人物重視入試やっても全く意味ないわw……などなど、教授会では全くでてこないが、一端廊下に出るとみんなが話している意見である(……あれ?そうかな?最近わたくしの周りではこういう意見すらなくなってきたような気がしないでもないか……)
だから、問題はこの先で、どうするかであるが……
例の与那覇氏は日本の入試制度の利点があったことを自覚していて……、入試が過去をリセットできる制度であることによって、階級差を流動化する役目をはたしていたとか、そのいみでは大学に入って遊んでもいいじゃんとか、述べていた。それに、旧制高校の時代とは違って、基本やる気のない学生ばかりということを考える必要があるとか……
ただ、これも大学の教員なら誰しも考えたことがある現状認識であろう。この現状認識によって、上記の様々なグローバル化や資本の論理の侵入によって引き起こされている不満に対して、立ち向かう姿勢がややぐらつくことは確かである。
しかし、やはり十代しゃべり場?と同じく、ある種の抑圧がかかっているように思う。さすがに与那覇氏は、「本当は大学の考えるべきことではなく、資本の側の問題だ」というような発言をしていたが、資本は資本である。昔から、そんなもんではなかろうか。われわれに対する本当の抑圧はもっと身近にあるのだ。ゼミ生とか、なんとか委員長とかなんとか部長とか、大学のお偉方とか、文科省の誰かとか、である。これらからの抑圧がどうにもならないのにグローバル化とか資本のせいにするのは、昔のマルクス主義と同じである。よって、上の不満に対しては次のような処方箋が考えられる。
・基礎教養がないやつがコミュニケーションなんかとれるわけねえじゃん→教養科目で六〇点以下を正直に不可にいたしましょう。
・インターンはやくやめろよロック・ルソー知らないやつが何やっても意味ねえよ→授業のかわりに就職活動、インターンに行こうとする学生を不可にしましょう。
・大学の改革(笑)がエビデンスを示さずに行われております→ばかばかしいプログラムなどの報告書は社交辞令ではなく、本気で書きましょう。書き直し要求が来たら拒否しましょう。
・大学に入ったら高校よりも勉強してないとかむしろ国際的に孤立しすぎ→勉強していない学生を卒業させなければいいのではないだろうか。
・推薦入試で入ってくる学生って学力ないから駄目だよね→推薦入試やめればいいわな
・面接がマニュアル化するから人物重視やっても全く意味ないわ→マニュアル化した回答を行った学生をすべて落とせば問題なし。
……現実的には、これらを行おうとすると、いろいろなところから脅迫や妨害が入る。それもひどいものがくる。これらが怖いからみな「ジレンマ」があるふりをしてしまうのである。
そういえば、番組中に、参考意見として例の文化研究で有名な東大の学者が出て意見を述べていたが、彼の発想は結果的にグローバリズムにも学問の発展にも寄与しないと思った。一見リベラルなのだが、こういう「越境的」な発想がひどい結果をもたらすのは、たとえばわたくしがいた大学などで実証済みである。
必要なのは、普通言われている中間集団より小さい単位のグループの孤立であり自由である。いきなり大学や組合や地域の復興を目指しても、もう占領されているからだめだろう。5人ぐらいからこつこつと自由になることが重要ではなかろうか。
……というわけで、まだ途中だったのだが眠くなったのでテレビを消した。