★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

海賊という白昼夢

2014-04-09 03:01:17 | 文学


本屋大賞が和田竜の「村上海賊の娘」という作品に決まったそうで、わたくしは本屋大賞の受賞作品を一つも読んでおらず、今回の作品も読んでない。なんでも本屋大賞というのは、「書店員が最も売りたい本を投票で選ぶ」らしいのである。わたくしは一度本屋でアルバイトをしたことがあるが、本はとっても重いな、という印象しかない……ので、書店員の皆さんが「最も売りたい本」という意識を果たして持っているのか、わからない。何しろ、それは、「売りたい」のであって、所謂推薦本ですらないからだ。女子高生が「コルナイ=ヤーノシュ自伝って超よくね?」と友達にオススメするのとも違うし、わたくしが、学生に向かって「共産党宣言をまだ読んでないのか、さっさと買ってこい」と言う(言ってないが)のとも違う。西村賢太がどこかで、「書店員如きが選んでどうするんだ」と、いつもの知的コンプレックス問題を突っついていたが、それはともかく、まあ問題は、選ぶプロセスと、大賞の真の目的であろう。

文学賞の選考は、わたくしも経験したからちょっとわかるが、投票数で最終決定するまで、あーだこーだ議論するので、いろんな意味で文学的に何が正しいのか、という問題を避けて通れない。良くも悪くも議論で勝った意見が尊重される側面もある。本屋大賞がどうやって決まっているのか知らんが、なぜ議論するかと言えば、投票というのは、「意見が封じられている」状態であるからだ。国民投票にしても選挙にしても、最後はみんな黙って投票する。大声で意見を言いながら投票している人をわたくしは少なくとも見たことがない。で、もう一つの大賞の目的だが、「売りたい本」を決めるのではなくて、「売れるので売る本」を決めることである。……というわけで、書店員各人が仮に「最も売りたい本」を思い描いていたとしても、投票によって平積みにすべき本が決まるわけであるから、ますます「村上海賊の娘」より「ロボット妹―改め人類皆兄妹! 目醒めよ愛の妹力」や「ドイツ農民戦争」を売りたいですとは言えなくなる。言えば、「最も売りたい本は『村上海賊』」だとか、意味不明な店長の言葉が返ってくる始末である……。で、買った方も「やっぱ面白かったな」と、いつもの言を繰り返す……、ならまだましだが、映画化されたその作品を観た原作未読のあほんだらが「超泣けた」と、泣けないまともな人間を脅迫し……

すなわち、わたくしの妄想によれば、本屋大賞は、今の政治そのままの最悪さを持っているのであるが、そんなことはどうでもよい。

気になったのは、昨年は「海賊になった男」、今年は「村上海賊の娘」と、海賊が二年連続受賞したことである。読んでないから何ともいえないが、海というのは「ロビンソン・クルーソー」以来(じゃなくても)、ロマンの対象としていろいろと問題含みだ。帝国主義が島国発祥らしいのはいまだに問題になっているところでもあろう。……で、あっちの島国はよくわからんからいいとして、私は、先の大戦が「太平洋戦争」だったこと、降伏調印式場が海上だったことなどのイメージが、われわれの戦争のイメージに大きく影を落としているようでならない。あんなに爆弾を落とされながら、われわれは日本が戦場だったとは思ってこなかったのではなかろうか。私がアメリカや中国だったら、日本は格好の戦場候補地と思う。原爆だって、ソ連中国との位置関係に加えて島である日本だから落としやすかったに違いない。国境線はいつも戦場の候補地である。われわれは自分の国を島だと思い、内部と外部のような感覚で世界を見ているかも知れないが、周りから見れば、境界線がちょっと膨らんだようないい感じの形をしている、一種の国境線に見える……。しかも島で閉じているから難民問題も国境の移動による民族問題も発生しない、後腐れのない戦場にできる。

私が、積極的平和主義やら集団的自衛権やらの議論で妙だなと思うのは、どうもわれわれの指導者たちが、右も左も、「戦争に行く」とか「軍隊を送り出す」とかいう感覚で議論しているような気がすることである。パートナーがアメリカだからよけいそんな感覚が強まったのかもしれんが、軍事力を行使する可能性を考えるのは、自分とこの国土でどんぱちやる可能性を考えることでなければならない。海で決着がつくとは限らないではないか。先の大戦だってそうではなかったではないか。というわけで、海賊漫画や海賊小説が流行ることの背後に、われわれの盲点が隠れていなければいいなと思う今日この頃である。

追記)「博士の愛した数式」は読んでた。本屋大賞だったんだ……