★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

地震とか

2014-11-23 19:15:10 | 文学


・昨日は白馬で地震がありました。長野県はしょっちゅう揺れてるけれども……。

・白鵬32回目の優勝です。もう少しで王選手のホームラン記録を抜くぞこりゃ。

・吉川末次郎の戦時中の、というか東方会時代の大学論を読んだが、最近の大学論と全く同じなので笑った。受験戦争への批判と、大学が社会のために働かず教授会で内輪もめばかりやってることへの批判がセットになっている。そういえば、学園紛争の時の「大学解体」も、密かな論点は似たようなもんだった。アーレントではないが……、あ、アーレントとは違うが、ある種の(知的)権力批判が暴力の発生と相即的であるのはいまに始まったことではなく、ずっとそうだったのである。もしかしたら、大学という権力をつぶすために日本は戦争をやったのであろうか。――これ、あながち妄想とは言い切れないのではあるまいか。

・絶望は死に至る病とは限らないが、全体主義に至る病ではあるかもしれない。

たけのこときりん

2014-11-23 03:30:08 | 文学


子供心にこの絵は天才の絵だと思った絵本「ふしぎなたけのこ」。竹の中に籠もったり家の中に籠もったり、月の中に帰ったりと――「竹取物語」が孤立した被差別者あるいはお金持ちのお話だとするなら、庶民の世界の――このたけのこは、雲をつきやぶり天高く伸びたが樵に切り倒され、風を切って山を越えたあちら側を指し示すのである。その先にはうまいこと、うまいもんがある。山国出の私にとって昔から疑問なのは、竹の子が山に阻まれて結局、宙を指すだけなのではないかということであるが、とりあえず海までさきっちょが届いてしまえばよいである。みんなで魚を捕り行こう。



最近読んだ「ももいろのきりん」。きりんは女の子が作った切り絵だが、これが大きいのでびっくりである。家よりもでかいから結局女の子共々家の外に出て行く。問題なのは、きりんがへたったときに太陽によってしゃんとして何度も復活することである。また、クレヨンの木の出現によって、女の子が他の動物と一緒に色を塗り直したりする。家に帰った女の子ときりんだが、結局彼女がきりんのために大きな桃色の家を作ってあげることができたのは、夕日のおかげであった。きりんをげんきな「ももいろのきりん」にするのは、女の子であろうか、太陽であろうか、あるいは「自然」なのであろうか。ここでは女の子にも動物たちにも勝手に伸びてゆく自然生長性が存在せず、自分で働きかけなければならないにもかかわらず、その作用がうまく確認できないようなストレスフルな世界があるように思った。しかし、この話から、歌声や風や光のあふれる様を感じる子どもは多いと思う。ここには「創世記」の風が吹いている。