なにが秘密かというと、宇宙と男性との間の関連性の問題でしょう。[…]月ぐらい行ったってなんにもならないんですよ。もっと宇宙の深淵の中に、男性原理の根本的なものとのつながりがあるはずなんですよね。それを稻垣さんは言っちゃった人ですよね。
――三島由紀夫「タルホの世界」
小室直樹が「三島由紀夫は復活する」とかいう風な本を出していて、それは願望というより必然に見えていたのかも知れないが、――三島に限らず、作品は未来によって左右されるのは確かである。角川文庫に入っているベルリオーズの「ベートーヴェンの交響曲」に書いてあったのでよく覚えているのは、第2番があまりに過激でスキャンダラスだったらしいことと、第3番「エロイカ」は長すぎるという評判が圧倒的であったので、それ以降、ベートーベンが少し交響曲を短めにしているんじゃないかという説であった。しかし、ロマン派以降、ベートーベンでも長すぎると感じたであろう程の大交響曲が成功を収めてしまうことで、ベートーベンの作品自体の聞こえ方が変わったと思うのである。しかしその聞こえ方はベートーベンの作った曲そのものから発している。文学でもそうだが、作品の価値は、同時代に何を乗り越えたことで決まる面もあるが、その作品以降何がおこったかにも因る。未来は折れ曲がって過去に行く。実際にベートーベンは未来にも会ってたというべきであろう。もしかしたらそれは過去の顔をしていたかもしれないが。
文章は他人にわかってなんぼなので分かりやすく書くべしみたいなことを言っているうちに、自分のぐずり(つまりそこには過剰な攻撃性がある)みたいなものを平気で公の文集などに載せてしまう人間が大量発生してしまった。結局、その『わかりやすさ教』は他人への顧慮ですらなく、そう言う者の、自己への愛=他者への攻撃性、にすぎなかった。感想文や思い出文みたいなのは他人が面白く読めなければだめだが、別に分かりやすい必要はない。そもそも人間の思いはそんなわかりやすくはないからである。自己理解が分かりやすくなっている阿呆はいるにしても、そういう人でさえつねに攻撃性と自己愛を付け加えるのを忘れないほどには単純ではない。
我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドッグをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆んど聞きとれなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドックと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。 一人の学生が椅子に乗ってヴォリュームのつまみをしばらくいじっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。
――村上春樹「羊をめぐる冒険」
村上春樹は、マルクス主義運動の一部のように、経験が意味の塊しかならないような事態から我々が自分を救うためなのかしらないが、積極的に直接に経験されるものを消して行く動きをいち早く読み取っていた。我々はいわば壊れたボリュームによって意味を消し、自分を救う。一見そうはみえないが、テレビもスマホもボリュームを壊すことなのである。その結果、意味の消去を試みる村上春樹の小説を「分かりやすい」と評するものが出てくる。ボリュームの壊れた世界にも我々は簡単に慣れたのである。
しかし、人間は慣れへの違和感にもいずれ慣れる。最近は、別の意味でのボリュームを求めてカラダが動き出している。だいたいワークライフバランスとかいうものもその一環である。余計忙しくなっているではないか。――そういえば、オンライン学会はスマホで音声聞きながら資料を左手に右手で洗濯物を干すという学者のワークライフバランスを促進し聖徳太子化をうながしている。今日のわたくしは更に同時にカロリーメイトを食べるという技を加えた。ここでトイレに行けば、後使えるところは鼻の穴とおへそぐらいだ。
昨日、学生から「コードギアスは基本文献と言われております」と言われたのでみなくてはならぬ。ますます我々は忙しくなっている。
そもそも二足歩行は親の期待に応えただけで、ほんとは四足歩行、あるいは1とか3とかも可能性としてあったのではなかろうか。少なくとも暇になった二本の足に逆に忙しさを与えて人間は文明を築いた。