★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

報恩と自活

2022-07-01 23:41:58 | 思想


季札といひし者は心のやくそくを・たがへじと王の重宝たる剣を徐君が墓にかく・王寿と云いし人は河の水を飲んで金の鵞目を水に入れ・公胤といひし人は腹をさいて主君の肝を入る・此等は賢人なり恩をほうずるなるべし、況や舎利弗迦葉等の大聖は・二百五十戒・三千の威儀・一もかけず見思を断じ三界を離れたる聖人なり、梵帝・諸天の導師・一切衆生の眼目なり、而るに四十余年が間・永不成仏と嫌いすてはてられて・ありしが法華経の不死の良薬をなめて燋種の生い破石の合い・枯木の華菓なんどならんとせるがごとく仏になるべしと許されて・いまだ八相をとなえず・いかでか此の経の重恩をば・ほうぜざらん、若しほうぜずば彼彼の賢人にも・をとりて不知恩の畜生なるべし、毛宝が亀はあをの恩をわすれず昆明池の大魚は命の恩をほうぜんと明珠を夜中にささげたり、畜生すら猶恩をほうず何に況や大聖をや

畜生でも報恩するのに舎利弗たち二乗の人々が法華経の恩に報じないではいられないではないか。というが、人間の自意識とものはやっかいである。自意識を心ありと錯覚する。心はむしろ畜生の側にある。それをいわないといけないのではないかとわたくしは思う。

たとえば「エヴァンゲリオン」のシンジ君みたいな「逃げちゃ駄目だ」とか「ありがとう」とか言っているやつがおり、一方にキントウン乗って如意棒振り回している孫悟空がいる。二者を比べて心のあるのが前者と考えるのが勘違いなのだ。孫悟空の方が心も頭脳も倫理もちゃんとしているのである。こんなの当たり前のことだ。悟空の心の方が迅速に動いているだけだ。彼は幼少期から自立しているからそうなのである。シンジ君は、兵器の一部として使用され、それゆえに使っている側を呪いそれを粉砕しようとするが、それが親だからできない。しかしそれがなんなのであろう。環境が悩みを作り出しているだけではないか。和解も反発も必要なし。自活するしかないのだ。世界中の子どもたちの心に孫悟空はいるけれども、別に我々を慰めない。自活せよと言って存在しているだけである。しかしこういう存在を自らのうちに持つことが心があるということなのである。

人造人間つくってそれがおっかさんだとか、巨人族で壁つくってそこに閉じ籠もるとか、仲間を守るため罪を被って人間踏みつぶすとかもうめんどくさすぎでしょ、とりあえずかめはめ派やギャリック砲やスクリュースピンスライディングで粉砕だよ。

そういえば、粉砕的な芸術家と言えば、宮谷一彦がなくなったらしい。わたくしが生まれた頃活躍してた劇画家である。「とうきょう屠民エレジー」がよかった記憶がある。「肉弾時代」はちょっとあれだった。彼の細君と一緒のヌード写真が強烈だった記憶がある。ああいうずっと力こぶみたいな作品はあの時代でも浮いていたんじゃないかな。。。なぜ「力こぶ」かというと、彼の精神は反発的であるからである。反発とは依存である。だから時代の変化には弱かったのかも知れない。