日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ、此れは魂魄・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくて・をそろしからず・みん人いかに・をぢぬらむ、此れは釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし。
宗教に限らず、人を惹きつけるものには必ず非人間的なものがあって、頸をはねられた日蓮の魂が書いた書だという開目抄を恐れてならぬ、これは日蓮の魂であってそれのみに非ず、明鏡である、と。
NASAの美しい天体写真をみて、我々の生とは関係ない非人間的なものに、我々は夜な夜な空を眺めて侵されて崩壊してゆくんだなと思った。我々が鏡を見るとき、自分以外のものが映っている。それは光に還元された自分の姿であって、非人間的なものである。三種の神器をありがたがった人たちがどういう人たちかはわからないが、そういう感覚は忘れてはいなかったにちがいない。
それにくらべて人間の世界は、言葉によって人に振り回される怖ろしいものである。松田政男などの編んだ『群論 ゆきゆきて神軍』のなかで吉本隆明が、自分は天ぷらをうまく揚げたことはないが、「天ぷらがうまく揚げられるようになったら、プロの料理人になってしまう」、と書いていた。ここが「なってしまうかもしれない」とする人と「なってしまう」と書く人の精神は大きくちがう。その違いが、人を振り回す。吉本はほんとに「なってしまう」と思ってしまう人で、だから学生の暴れん坊たちに人気があったのだ。柄谷行人氏なんかは「という他はない」みたいな文体だったから「という他はない」という感じの人が一時期増えたし、東浩紀氏みたいに「どういうことか」という感じの人も一時期多かった。
安倍晋三氏が人間からなにかの観念になったのは、モリトモのときの「私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。」という、もしかしたら、大江健三郎の小説の何か面白い場面で出てきそうな文体を獲得したことにあったと思う。善悪はときに文体に飲み込まれる。
こんな体たらくでは、言葉による合意形成など、人間には無理な話なのだ。信頼感がないとすべて合意形成みたいなことをしなきゃいけなくてそれは無理なので、結句、なにもしなくなるにきまっている。いま宗教2世の問題が囂しいが、宗教は言葉だけの問題ではないのである。多くが非人間的なものと言葉の組み合わせにおいておそろしく繊細な問題をかかえている。むやみに当事者に話を聞いては駄目だと思う。無神経なやつがいるもんだ、、、