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一渧をなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ、万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも竜樹のごとく竜宮に入らずとも無著菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし、蛇は七日が内の洪水をしる竜の眷属なるゆへ烏は年中の吉凶をしれり過去に陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐれたり。
「一渧をなめて大海のしををし」れるかどうかは分からない。そして一般的に、知らないことこそが大海のことを知ることになる。「大海」というのは観念であるからだ。オウムのときはなんとなく自分の考えていることが本質的だったという気にさえなり変なやる気さえ出てきたものだ。が、今回の事件は、脱力というかだめだこりゃ感がすごくて歳を感じる。正直なところ、オウムのときの方がびっくりしたんだ。周りに宗教に関係している者がいなかったわけではなく、そこから推測してああなるとは思っていなかった。しかしわたくしは宗教にも他人についても何も知っていなかった。しかし、今回は、昔よりは知恵がついているだけに、おれたちの社会が予想よりもだらけている場合なにか起こると思っていたところがある。だから余計脱力感があるのだ。大海の大きさをただ恐れるばかりだ。
おそらく宗教の力は、その大きさを信に変換できるものである。だから、人生経験を積んだ者もそこに惹かれていく可能性があるわけである。