★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

生成する生の感覚

2022-07-18 23:42:32 | 思想


周の第四昭王の御宇二十四年甲寅・四月八日の夜中に天に五色の光気・南北に亘りて昼のごとし、大地・六種に震動し雨ふらずして江河・井池の水まさり一切の草木に花さき菓なりたりけり不思議なりし事なり、昭王・大に驚き大史・蘇由・占つて云く「西方に聖人生れたり」昭王問て云く「此の国いかん」答えて云く「事なし一千年の後に彼の聖言・此の国にわたつて衆生を利すべし」彼のわづかの外典の一毫未断・見思の者・しかれども一千年のことをしる、はたして仏教・一千一十五年と申せし後漢の第二・明帝の永平十年丁卯の年・仏法・漢土にわたる。 
 此は似るべくもなき釈迦・多宝・十方分身の仏の御前の諸菩薩の未来記なり、当世・日本国に三類の法華経の敵人なかるべしや、されば仏・付法蔵経等に記して云く「我が滅後に正法一千年が間・我が正法を弘むべき人・二十四人・次第に相続すべし」迦葉・阿難等はさてをきぬ一百年の脇比丘・六百年の馬鳴・七百年の竜樹菩薩等・一分もたがはず・すでに出で給いぬ。


法華経は未来記である。その予言は救い主がくるぞという類いとは異なり、三類の強敵は必ず現れるのだというものであった。マルクスの、在来人類の歴史は階級闘争であったし、これからもそうだというのに似ている。敵を見出せ、それが自らの正の証である。

しばしば友敵理論はおそろしいものとして遠ざけられたりするのであるが、シュミットがみつめていたのは、人間の存在レベルのことであったのかもしれない。勉強すればするほど、先人はいいこと言ってると思う。しかしいいこと言いすぎていてひとりの一生では追い切れない。確かに我々には過去は負担が大きすぎる。だから怖ろしく愚かな人間も多いことにして生きるモードに設計されているにちがいない。それが、われわれの欲望としての存在というもので、恋愛や神はそんなときに現れて、過去を敵としてわれわれを存在として愚かなものにする。

テロや暗殺事件は、犯人の社会的・心理的なものを描写しただけではおさまりがつかない。

さっき、細君と平野レミの生中継番組みてたのだが、――平野レミのしゃべりとなんかスピード感ある豪快な料理の様にあわせて、細君が平野レミの親族の情報を入れてくるもんだから、わしがウィキペディアでそれを確認するという、マルチタスクをこなしてどっと疲れた。これは生成する生の感覚である。これを情報と劇の構成に腑分けしてゆくのがいつものテレビである。やっぱりテレビは、編集やるようになってから堕落したのだ。この編集としての作品が一般化すると逆に「朝まで生テレビ」みたいなヒステリックで下品なものの表出が輝きを帯びることになってしまうのだ。これはテロである。対して、理性ある少しおかしな人たちがライブを行う黒柳徹子の若い時代に帰った方がいいと思う。

適度の生成感をとりもどすことが、暴発を防ぐためにはひつようのようなきがするのであるが、そんなことが人為的にできたためしはないような気がする。