★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

混ぜご飯としての人間

2022-07-03 23:11:50 | 思想


此の過去常顕るる時・諸仏皆釈尊の分身なり爾前・迹門の時は諸仏・釈尊に肩を並べて各修・各行の仏なり、かるがゆへに諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す、今華厳の台上・方等・般若・大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前・迹門にして十方を浄土と・がうして此の土を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる

確かに我々もある程度歳を重ねてくると、自分が果たして個人として生きてきたかどうか怪しくはなるのだ。退職後、突然、郷土の歴史探索に目覚める方も多いが、暇だからじゃないかとか揶揄する若人に呪いあれ。先輩方は、自分が土から生えてきた植物のように、決して種が起点ではないなにかであることを直観しはじめるのである。歴史趣味はその現れに過ぎない。

人文系の学問のつねとして、対象にしているのが人間であるからして、イチローすげえとか大谷すげえとかとあまりかわらない精神状態を恒常的に人に押しつける可能性がある。人文系の学徒にとって学部や大学院は人格教育の場でもあるべきだ。長い時間かけて「お前は漱石じゃねえよ」とか「ハイデガーじゃねえよ」と言われるべきだからなのである。これがちゃんとできてないのに、表象批判とかファシズム批判やっても憧れの仮象とそいつの醜悪さのコントラストがひどくて、お前に言われたくねえわ、みたいなことを言われかねない。理系はまたちがった思い上がりに対する対策が必要なんだろうが、全然しらんからわからない。「長い時間」が重要だ。それは単なる英雄たちのと同一化を防ぐ自己否定ではなく、自己を英雄たちとの混ぜご飯にすることだからである。俺の場合は爪の垢とか尻の痣ぐらいは漱石やハイデガーになっているとおもわれ、まあ自分に帰りゃいいものではないわけである。

このとき、すでにわれわれはもう人間ではなく、混ぜご飯であり、もう少しで土に帰ることができる。

人文系にのめり込む人の多くは通俗的に言えば「憑依型」で、ほんとになかには萬葉や漱石や鷗外を諳んじている人もいれば、そうでない人もいる。そのなかに妙に、悟空に憑依されて学校の廊下でひたすらかめはめ派撃ってるようなタイプも混じっている。だから、一言で混ぜご飯だといっても一概にはイメージ出来るものじゃない。特に、ナルシシズムを批判しがちな教師たちは気を付けなくてはならない。萬葉を諳んじている人間など、ナルシストではないばかりか人間ではないのである。むかし、授業で、「ドストエフスキーを読んでない者はまだ人間でないと言ってよいと思う」と放言したわたくしであるが、誠に申し訳なかった。私はドストエフスキーの作品がもつあまりに人間的なものに欺されていたのである。

太宰の文学が西洋につながるものだなぞと早合点してはならない。あれ程、日本文学の湿気の多い沼の中に深く根を下していた、文学は少ないことを、私ははっきりと知っている。

――檀一雄「太宰治と読書」


太宰の文学は、実際沼の中から生えている蓮の花みたいなところがあった。彼自身も最後は水に飛び込んでしまったし。