★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

甘さとピグモン(ガラモン)

2022-07-23 08:13:51 | 映画


ウルトラQにでてきたガラモンは不気味で大きくて面白かった。ウルトラマンに出てきたときには赤くなってて労働者の味方らしかった。軍の味方をして殉教した。

我々の文化に於いては、オリジナルを変化させるときにかならず思想の甘さが紛れ込む。源氏物語やドラゴンボールでさえそうであった。それが「大和魂」の実態である。しかし、甘いからこそ更なる反復を生み、変態的模倣的に展開する。甘さと変態的なものは連関している。だから、模倣に快感を覚える「子ども」にパロディをさせてはいけないようにわたくしは思う。

研究は文化を形作るのかわからないところがあるが、飜訳はそれがけっこうめちゃくちゃであっても文化をつくる。古文や漢文も含めて専門家だけでなく、もうちょっと軽々しく飜訳的な作業を学生時代からやったほうがいいのだ。しかしそれは飜訳だからであって、パロディだからではない。飜訳はむしろ自国語の文化の内実を問い直すことであって、古文とか漢文の場合はもっと直接的にそうだ。それを学ぶことで、我々は飜訳をしていないときでも飜訳をやってることがわかるわけである。解釈とかの下品な暴走を止める意味でもそれは教育的で、もちろん国民国家的にも重要である。もっとも、飜訳で命を張ってる人間じゃない私みたいな人間がそういうえらそうなことがいえるのであろうが。。。

太宰治が「御伽草子」を初期にやってないのは、芥川龍之介への反省からくるものかもしれない。漱石の呪いでもあったわけだが、芥川龍之介は翻案を反復した。反復することで、逆に谷崎的な同じ様式での反復の快感まで手放したように思われる。太宰は、パロディを戦時下の緊張のなかでしか自らに許さない。甘さでも許される場合があったのであった。戦争に負けて、太宰は再び甘さをそぎ落とす方向に向かったが、「人間失格」である種の自己模倣的な反復をして命運はつきた。