その恋心は啻にそこらにひろがつて行くばかりではなく、またそこらにある林や森や丘や川に満ち漲つて行くばかりではなく、うねうねと折れ曲つて行つてゐる丘添ひの道にも、深く泥濘に喰ひ込んでゐる車の轍の中にも、草の葉の上にも、篠笹の葉の末にも、何処にもすべて行きわたらないところはないやうな気がした。静夫はぢつと静かにあたりを見詰めた。小さな赤い鳥居がまたひよつくりとその前に見え出して来た。
――田山花袋「赤い鳥居」
確かに、鳥居(特に赤いあれ)は、小さいほど、神秘性が増しているようだ。くぐるのが人間ではなくなるからかもしれない。これは鳥居に限らない。鳥のつぶやきメディアでも、ちょこまかとした感想というものはなぜだか真実味をもつものだ。長い感想文になると真実味が薄れる。
かかるサイズの問題は、なにか総体として幕の内弁当みたいになっていると許されるみたいな問題とみることもできると思う。我が国民は、なんだか視野を囲ってモノを並べるみたいなちょっとおバカになることによって世の中から逃避する傾向があった。それは囲いの空間にちょこまかしたモノがぶら下がっているようなものだ。例えば、政策というのもそうである。それ自体の成果を問われないために、抱き合わせて何かをおこなうことになるのが普通である。一組織のちょこまかしたくそ改革はむろん戦争だってそういうモノである側面がある。だからそれへの抵抗は同時に多くのモノへの動きを相手にしなければならないのであった。
ちょこまかしたものをくっつけて、それが本体よりも大きく見せてているのは、政策に限らぬ。悪意や善意などの感情と言葉がくっついていると思うのは幻想であり、その無関係な様が屡々目撃されているから、言葉の背後の「思い」や「お気持ち」をいちいちくっつけたように振る舞うようになっているのかもしれず、実際でかいのはやったことや使用された言葉であるのに、そこを無理矢理架構させるところの気持ちが絶対性をおびる。
授業も同じである。細かいプランのもとに授業が行われるようになると、昔の教師なら「ああ劣等生が多くなったんだねえ」と思うにちがいない。細切れの認識を積み重ねてもいっこうに認識が面白くならないのは、文章でもそうだし授業でもそうだが、そうじゃないと認識が0になりそうな恐れがあるときに、問いを分割しまくるわけだ。特別支援的な手法である。シラバスをあまりにこまかく書くようになってるのも同じで、ワークシートに頼りすぎな授業と同じで、何かを分割して安心するというあまり出来のよろしくない状態に学生を追い込む。分割するんだったら徹底して分割すべきなんだがそれはまた大変だから行わぬ。起こっているのは、学修の実質化でも、厳密化でもなく、ワークシート化なのである。授業の評価だって、全体と部分をはじめに決めてしまうと、一行の非常に鋭い認識を書いた学生が、全体として凡庸な認識の学生に負ける可能性がでてくる。凡庸なレポート100回書くような素振り的な授業とそうでないのがあるんだから、足し算のような評価方法は一部の授業だけにしとかなきゃいけない。
足し算しかわからないような人間が拠ってたつのは、ひたすら足し算だ。最近は、弱者と悪人が正義の拠って立つ何かを群れ(足し算)の圧力をかりてリンチしているのであって、その「何か」が何なのか分からなくても、あることさえ分かっていればよいのだ。「何か」は複雑だからむしろ「一」という何かであればよい。その「何か」はフーコーも明らかにしたかもしれずネットも同じく明らかにしたことになっているが、――何一つ明らかに本当にはなっていない。むしろ内実はタブー視され触れてはいけないことになっている。権力も一つであることで権力であるように、体制や文化の抑圧機構も一つという単位さえがあればよいのだ。むろん、ふざけるにもほどがある。
マイノリティや被抑圧者の精神とプロテストは権利などを獲得した後おなじような形態――つまり「一」の形態をとることができない。このぐらい、義務教育で経験すべき事柄だ。発達障害者でもそうでなくても、人を傷つけたら報復される。で、何か理由があるので報復はやめようということになっても、その理由が明らかになった例はない。理由はいつも「一」ではなく、抑圧機構と通じているからである。ゆえに、それを無視したあまりに我慢を強いる倫理というのは成功しない。逆に、全体の複雑さを変えなければ、マイノリティへの差別はいつまでも続くのであるが、それはマイノリティの側の(長所?)に寄せて構成を変えるやり方では、ただ単に多数派が少数派のメンタリティを受け継ぐだけになる。ネットをみればそれは一目瞭然である。全体の欠点を指摘する勇気がなくなったから、マイノリティまで多数派の欠点を様々抱え込むことになっているわけだ。