「昔より、誰も、親の仰せごとは、ともあれかうもあれ、否び聞こえじと思ふ本意侍れば、否び聞こゆべきには侍らず。この国ならず、大きなる国にも、国母・大臣、一つ心にてこそ事を計りけれ。臣下ども、御足末にて、やむごとなくてものせらるめるを、あひ定めて、ともかくもせさせ給ふばかりになむ。ここに、はたかの人離れては、いと頼りなく待るに、かかること侍らば、参るべきにも待らず。されば、かの人・幼き者もろともに、生くとも、死ぬとも、もろともに山林にも入りて侍るばかりにこそは。位禄も、顧みむと思ふ人のためにこそは。何せむにか、これをいたづらになしては、世にも侍るべき」とて、涙をこぼして立ち給ひぬ。
先日、あるパンダが中国に帰っていったのであるが、そのときの見送りの人々がすごかった。パンダのぬいぐるみを抱えたおばさまなどの涙が止まらない。上の春宮なんかは、中国でも国母がいろいろ決めているというのでお母様もみんなでいろいろ決めればいいでしょうでもわたしは藤壺と一緒、彼女の子どもと一緒に、死んでも生きても、もろともに山林に入ってしまいます、もう何にもいらないですウワーンと大泣きであって、中国の山林に帰るパンダにむかって泣いている日本人と好対照であるようにみえて、きちんと中国(もどきの政治をやろうとしている母)に対峙して泣いているという意味では、地政学的に見てほとんど一緒という他はない。
そういえば、コピーをとっておいた昭和16年『ナチス詩集』は神保光太郎の編集で、リルケの富士川英郎とかシラーやマンの野島正城、カフカの近藤圭一、ゲーテの瀧田勝、キルケゴールの山田新之輔とか、戦後活躍する訳者たちが新鋭の若手として集められている。あ、フロイトの高橋氏もいましたね。。。彼らは中国を飛び越えて、ナチスに自分たちを重ねることによって、積極的に泣いていこうとしているわけで、結局、その受け身の姿勢で、なんの成果も得られなかったようにみえる。
しかし、聞いたところによると、神保光太郎の息子は、なんと「サインはV」とか「花の子ルンルン」をはじめたとした日本サブカルの原作者=神保史郎であった。作品の影響はなくても人に何らかの影響はあるかもしれず、結局、日本のサブカルは、保田が神保を評して言ったような「日本の昭和詩を本流に戻す」みたいな役割を担ったのかもしれない。なにしろ、神保の詩は、いま読んでもほとんど何の面白さも感じないのだ。不思議なほど感じないのが逆に不気味である。
ラクー・ラバルトの『政治という虚構』を再読したら、なんでこいつはわたしの30歳ぐらいみたいなこと言ってんだと思った。がっ、まさにですね、わたしが30歳ぐらいの時に読んでいたいうことはここではっきり申し上げておきたい。その後、わたくしも本流に戻ろうとしていたのかも知れない。