隨分長らく御無沙汰致し候ものかな、御許し下され度候、貴兄には相變らず御清適『白虹』のため御盡力の由奉賀候、さて御申越の課題については小生別に意見と云ふ程のものも無し、有つたところで小生如きの意見は何にもなるまじくと存じ候、但し文藝の事は本來中央も地方も無之てよい筈、そんな事は眼中におかずに、東京の雜誌と拮抗する樣な立派な雜誌が、今の世にせめて一つ位は地方にあつても然るべきと存じ候
――石川啄木「予の地方雑誌に対する意見」
我が国の人民が、自分の意見を言いましょうという教育を施される(あるいは、実際に施されなくてもそういう世論擬きが形成されると――)と、エラい人をはじめとする意見を自分の意見として高圧的に言うようになった。正直、自分の意見はどうでもいい、ちゃんとしたこといえ、みたいな昔の教えの方がまだ幇間にならずに済んでいた部分があるわけである。生前、小田嶋隆氏みたいなインテリでさえ、――国語教育の心情把握みたいなテキストへの密着は、「忖度」であって、そればかりやってるから日本人はだめなんだと言っていた。しかし、そういう忖度をやめて自分の意見を造りましょう、となったら、テキストを無視して聞いた風な事を自分の意見として言い、おおよその心情把握すらできなくなったのと同じである。
しばしば、学校教育の国語は文学研究者を育てているのではないので、正確な解釈ではなく自分の生活に活かせる言語能力の育成に資する活動でいい、みたいなことが論文に堂々と書いてあったりするんだが、その結果がこの有様だ。そもそも理論として笑うしかないわけだが、――たぶん、あまりにコミュニケーションが普通にできない子どもの存在に驚いて、従来の国語では不十分だとおもった研究者や現場の研究者がいたんだと思うし、それはわかるのである。しかし、それはたぶん国語教育のせいではなく、別の手段が必要な事案であった。
もともと、小学生にかぎらず、言語能力というのは、国語が基盤ではあるかもしれないが、――その能力の伸張は、各教科の相互作用みたいなもの、各教科の間で起こる。コミュニケーションの能力もそうだ。国語でその単純なまねごとをやろうというのが思想として間違ってるのである。今年の共通テストなんか、全教科の「国語化」が起こってたけど、日常生活のコミュニケーションが国語的な読解の領域だと思っていることによる過ちである。理科、社会、数学のコミュニケーションは、まずは教科の問題ができることによって前提ができあがるのであって、コミュニケーションによってできるのではない。
――スターリン言語学でも復習するかと思って、『スターリン全集』をながめていた。これに反発するのは実際大変なことだったとわかる。知は力なり、だよな、ある意味で。
日本でコミュニケーション能力とか言ってるひとの大部分は、似たようなことを言うてるスターリンの論文で批判されてシベリアに遠征だ。もっとも、スターリンが批判した言語を下部構造との関係で探究するものではない。日本の場合で流通しているのは、アメリカのミュニケーションの学問よりも、またスターリンよりももっと幼稚な、言語=国民のコミュニケーションの道具みたいなものである。スターリンでさえ、言語が上部構造ではないみたいなことを言いいながら文化の上部構造性との矛盾を隠蔽しようとしていない気がする。スターリンの言語学があやうい認識であることは当時から時枝誠記が言っていたことである。めんどうな問題を消して語ってはいけない分野がある。