★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

戦後レジュームのあれ

2023-02-06 20:03:07 | 文学


「おまえ、帰ろうって、どこへ帰るの。もうお家はないんだよ。」と、母の声は、小さく、ふるえました。
「そう、だったか。」と、清吉は思った。そしてこのときほど、自分の母をいたましく、感じたことは、なかったのでした。
「義雄ちゃんのおじいさんが、焼けたら、いつでもこいといったよ。ぼくは、なんでもして、これからおかあさんのおてつだいをするから。」と、かれは、胸の中が熱くなって、母を元気づけようとしても、わずかに、これだけしかいえなかったのでした。
 しかし、母は、なんとも答えず、いつまでも泣いていました。かれは、これではならぬと知って、
「おとうさんが、帰れば、新しい家をこしらえてくれるよ。」と、つづけていいました。
 しばらくすると、母は、泣きやんで、そでで顔をふきながら、
「おまえがあるから、おかあさんは、もう、けっして泣きませんよ。」と、母は、いったのでした。
 清吉は、あの日のことを思い出しました。もしそうでなかったら、きょう、おばあさんをみても、なぐさめようとしなかったでしょう。
「ぼくは、もうおとななんだから……。」
 かれは、はりきった気持ちで、胸をそらし、両足に力を入れて、電車道を歩いていったのでした。


――小川未明「戦争はぼくをおとなにした」


逆に、戦争のエンタメ化が人々を子どもにし続けていることは皮肉である。

以前、気球に乗ってどこまでもみたいな気球が日本にも飛来し、ワイドショーでも騒いでいた。我が国は再軍備を肥大化させているくせに、平和主義が米軍に依存しているというパラドックスを内面化させているために、危機感をいつ発動させたらいいのかもわからず、――とにかく人が危機をあおるときにはすべてピントが狂っている。しかし、庶民が気球をUFOだと言うのは彼らが幼稚だからしょうがないし、わたくしもそれで盛り上がっていた気がする。しかしそのときにも大臣が「あれがどこに行くのかは気球に聞いてください」とか言うており、心底この国はまた焼け野原になると確信した。で、米国はというと、――めんどうなのでまとめると、

・UFOかもしれない。どこに行くのかは気球に聞いて下さい(日本)
・撃墜しました(米国)


ということだ。

たいがい、二項対立はやべえとポストもだんの時代に言われていたにもかかわらず、全然進歩がないのは、エンタメに触れすぎたからかもしれない。巨大な二項対立、というか、鯨にくっついた小魚――みたいな状態ではすべて感覚が狂っているわけである。多くの物語を読むことは、二つの物語を比べることと大きく違う。そしてわれわれが狂っている場合、後者を多様性と勘違いするのである。ついに、最近は、二つを比べて多様性が担保されるとか言っている人間が増殖している。

もう「多」の認識に必要な、ファクトの認識が危ういのだ。もともと我々の文化にそういう傾向があるが、ファクトが認識できないことに、いわゆる「考える力をつける」的な教育が関係しちゃったのも明らかであろう。知識偏重をおこす人間が今度は考え偏重をおこすのは当たり前だ。でもそれはほんとは偏重と呼ぶべきではない。人がみな偏重する事態というのは仮象であって、その実、教えられるポイントが移動しただけだ。つまり多くの人にはそのポイントだけが記憶されるということなのである。而して、知識ではなく「自分で考えよう」になり、実際は考えられない事態が招来しただけだ。国民教育はたいがい最悪の結果の責任は絶対とらないようになっている。そんなことも我々はわからなくなっている。