これは、げに、先祖の御霊の、我を待ち給ふなりけりと思して、人を召して、開けさせて見給へば、内に、いま一重校して、鎖あり。その戸には、「文殿」と、捺したり。さればよと思して、また鎖開け給へば、ただ開きに開きぬ。見給へば、書ども、うるはしき峡簀どもに包みて、唐組の紐して結びつつ、にたに積みつつあり。そのなかに、沈の長櫃の唐櫃十ばかり重ね置きたり。奥の方に、四寸ほどの柱ばかりにて、赤く丸き物積み置きたり。ただ、口もとに目録を書きたる書を取り給ひて、ありつるやうに鎖鎖して、多くの殿の人任して帰り給ひぬ。
宇津保物語には、先祖が残した書物の入った倉を普通の人は開けられないが子孫が開けたらすいっと開いたみたいなはなしがあって、上の場面である。いまもこういうのが学者達の夢であるな。なぜかおれだけが分かったみたいな栄光である。そこには無根拠であるより、なにか根拠があったほうがよく、上の場合は血だが、そこにはいろんなものが入る。これを学者達のナルシシズムと言うのは簡単だが、なぜかそういうもので分かってくることもあるのだ。要は、対象に対する文字通りののめり込み方であって、学者達は対象に嵌入されないと語ることができない。いまはそれをてっとりばやく行うやり方があって、当事者研究というのだ。もちろん、これは社会主義者たちの「労働者」の眼問題からつづくあれで、権利獲得のものでもあるが、その心意気だけでうまくいくほど学問は甘くない。
今日は、横道誠氏の『ひとつにならない』をすいすい読む。横道氏の著作には対話篇と独白篇がうまいこと共存しているが、ソクラテス的でも柄谷的ダイローグでも昭和の文芸評論家たちの喧嘩でもなく、なんとなくマンガのなかの対話と独白みたいなかんじである。マンガの主人公がなにゆえ言いたいことが言えるのか。これは日本の文学の問題としてもすごく重要なところをついている。さっきテレビで、「当事者は嘘をつく」の著者がしゃべってたけど、当事者が研究者であるときの「嘘」をついてしまう感じについて考えさせられた。横道氏のやりかたはその解決への一つの道を開いている。「当事者は嘘をつく」はまだ読んでないのでなんともいえない。『ひとつにならない』は、発達障害の当事者の性のありかたについての報告・考察である。これはむろんタブーへの挑戦で、言ってはならない抑圧が実はそんなに抑圧として存在していないなきがする。逆に、発達障害という壁をうまく利用した実態解明である。
しかし、わたしにとっての問題は、横道氏とは違ったところにある。例えば、言ってはならないことなのに言ってしまう事例、「王様は裸だ」といったものだけではない。これは真実を言ってしまうので世の中を凍らせるだろうみたいな吉本的子どもで、一応「善」ということになっているが、――しかし、多くのこういう発言は「世の中やったもんがち」「卒論は出来が悪くても通るだろ」とか「コスパ最高」とか「気の弱い上司は脅すのが一番」とか「教師で学があるといじめられる」とかもろもろの「みんなが思ってそうなこと」も含まれている。というか、そういうものが世の中、おおっぴらに口に出されるようになってきている。たぶん、便所の落書きにすぎなかったネット文化の世間への解放と、空気を読めない人間への叱責の生滅による抑圧の消滅が原因である。
世の「空気」というのは、「みんなが思っていること」で出来ているのではなく、みんなが思っていることをいかに抑圧したり小出しにしたりして運転をするかという一種の「文化」であったはずで、いわゆる発達障害の当事者が書いたものでもそれはたいがい踏まえられている。しかし、人々の反感はただの同調圧力=数の優位としての抑圧(「空気」)になってしまっている。而して、世の中甘くはなく、――そういう「空気」を意図的に踏まえない者、ほんとうにわからない者、「空気」を法や制度にしてしまいたい支配者気質の者、などがからまりあって非常にめんどうくさいことになっている。実際、発達障害が疑われる人が、空気を読むことへのこだわりを起こして、権威主義的になったり規則の奴隷になったりすることもあるが、これは定型発達?の人にも多く観られることだ。さしあたり、特殊にみられる現象を潜在的なものの現れだととった方がよい場合もある。研究しているわけではないのでよくわからんが、発達障害の問題が、マイノリティの問題になりきらずに社会問題になってしまいがちなのは、そういうことに気付いている人が多いということだと思う。原因がどこにあるかはわからないが、とにかく全体的に世の中が狂ってることが重要ではないだろうか。
だいたい最近は大人のする「社交」がおかしいんだよ。こんなのは定型発達者だって出来ねえよみたいな幇間的なへらへらしたものが多い。NHKのニュースみたいなやつな。ひとつは虚礼廃止がでかかったんじゃねえかなと思う。あれらはめんどうなもので理不尽ではあったが、虚礼ではなかった面があって、意味がないからこそありがたがってしまう花火やお菓子みたいなものであり、これがなくなると、逆に意味のある媚びや諂いが必要に思えてしまうのだ。チョコレートや賀状の方が無害に決まっているのである。
もっとも、わたしは田舎もんだからちょっと迷うのが、都会の人がいく「空気を読む」みたいなものがわたしの考えるものと大幅に違っているんじゃないかというやつだ。わたくしは、ここで言ってはならないことになっていることを言っているのである。つまり、