小1ぐらいのときの絵↑
白味噌漬けというものは元来高級品であり、且つ味噌そのものからが廉価ではないから、下らない魚類を漬けることは許されないわけである。ところがいかという例外がある。いかは肉の厚い大形のすみいか、あおりいかが認められて、やりいかは、やすっぽく扱われているが、新しくさえあればやりいかほど小味で、微妙な美味さをもったものはないのである。生きているやりいかの皮を剥いで刺身として食う美味は、すみいかやあおりいかの刺身の比ではないのである。しかし、知る人の少ないのは惜しい。生きたやりいかを白味噌漬けにする経験や、賞味する人に至ってはほとんど絶無にちかいかも知れない。これはやりいかの本場に残され、且つ家庭料理に漏れている料理の穴であると言えよう。
――北大路魯山人「生き烏賊白味噌漬け」
もしかしたら、われわれの文化は料理とテキストをごっちゃにしているかもしれない。味付けして相手に出して喰うものであるという。あるいは自分で食べてもいい。とりあえず、愛でるより喰ってしまうのである。
テキストの文脈にこだわらずにそれをネタに自由に言語の活動をすると、言語能力があがるみたいな発想が教育界にあるけれども、それは言語能力の一種ではあるが、空想とか妄想に自足する能力でもある。たしかにそういう側面が文化を支えていることもたしかだが、そりゃセンスのいいやつの話で、その自足性をなめちゃだめだと思う。――そうである、我々は舌なめずりをしているのだ。
大概、グループワークなんかでは、対話がその自足(自分の意見とやら)の発生を促し、発生が起こったところで時間切れと他者へのおびえと遠慮で対話は終了。で、求められているところの対話の成果としての合意形成は、その自足の何かですらない社会的通念を代替させて発表する。であるから、必然的に、先の自分の意見は、社会的通念とは別のなにかとして殊更価値付けされ温存されたまま授業がおわる。対話的な行為がもっとも対話的でない状態を発生させちまうわけである。これを何年も続けていればどうなるか、予想もつくというものだ。
言語の活動は、美味いも何も食べ物ではない。自分で賞味しつづけてもまずい。