以前、オールナイトニッポンで中島みゆきが容姿が悪いとひどいいじめを受けている女の子が「みゆきさんのコンサートの日には、今の私でない私になってみようと思います。」と手紙を書いてきたのに対して、次のように答えたことがあったらしい。
日本中で今のこの番組を聴いてる人。誰が一番醜く見えるか分かると思います。このハガキをくれたあなた。そのくらいのこと分かる人が、日本中にいっぱいいると思います。今あなたの周りにいる学校の、そういうことを言う、あなたを傷つけた仲間だけが人間だと思わないで欲しいと思います。これからいろんな人に会っていくんだと思います。世の中狭く見ないでくださいね。女の子は、金さえかければある程度いくらでも美人になれると私は思います。顔ってのはいくらでも造れます、金さえかければ。でも、金かけて奇麗になれないものもあると思います。コンサートの日は、アンタのままのアンタで、おいでよね。(1984年2月7日 https://buzzmag.jp/archives/180917)
中島みゆきの言い方とは逆に、「いじめる相手にも寄り添って」みたいなことを言いかねないのが今時の教育なのだが、この「寄り添い教」がなにをもたらしたのかがよく分かるというものだ。それは、逃避と屈服である。中島みゆきは別に手紙の女の子に対して寄り添ってはいない。心がきれいだから大丈夫とも現実逃避せよともできるとも言っていない。いじめているやつは死ねとも言っていない。女の子に世の中を狭く見るなとも言っているし、あなたのような人が好きな人がいるかもとも言っていない。屈服していないのである。これに対して、「寄り添い教」は、粗雑な精神に屈服し、相手を認めてしまうことで自分の敵愾心を押さえ、強者に媚びて安心立命を獲ようとしているのである。
今日は、「小説神髄」と「内部生命論」を比較して、彼らが抱えた困難を授業で論じてみたが、前提として、彼らが卑屈の側につかないと明らかに決めていたようなところは論じ落とした。都区に透谷の「内部生命論」は哲学者と文学者の違いについて話していて、この議論の鋭さと困難が後世えらく尾を引いている(表面的には引いていない)ことはそのことに比べればどうでもいいような気がする。
さやけき影をまばゆく思し召しつるほどに、月の顔に群雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「我が出家は成就するなりけり」と思されて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿の御文の、日ごろ破り残して御目もえはなたず御覧じけるを思し出でて、
「しばし」
とて、取りに入らせおはしまししかし。
粟田殿の、
「いかに思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづからさはりもいままうできなん」
とそら泣きし給ひけるは。
われわれはこういう場面を批判精神の発露と感心する程度には卑屈になっていると言わざるをえない。
追伸)卒業論文の指導で、学生の資料の「序論・本論・結論」が「序論・不倫・結論」にみえたおれはたぶん老眼。