★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

大げさなものと構造

2023-11-22 21:39:21 | 文学


今有一人、入人園圃、竊其桃李、衆聞則非之、上為政者得則罰之。此何也。以虧人自利也。至攘人犬豕雞豚者、其不義又甚入人園圃竊桃李。是何故也。以虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至入人欄厩、取人馬牛者、其不仁義又甚攘人犬豕雞豚。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚、罪益厚。至殺不辜人也、扡其衣裘、取戈剣者、其不義又甚入人欄厩取人馬牛。此何故也。以其虧人愈多。苟虧人愈多、其不仁茲甚矣、罪益厚。當此、天下之君子皆知而非之、謂之不義。今至大為攻國、則弗知非、従而誉之、謂之義。此可謂知義與不義之別乎。

他国を攻めることは、他人の畑に入って桃を盗むことと一緒なんだと言うのはたやすいが、ここまで順番に徐々に大きいものを盗むのは悪いですよとたたみかけてゆくところがいいと思う。墨子の倫理は、世界をボレロのような構造で説明しようとするもののようだ。みんながやってるから道徳にせよではなく、小さいものから大きなものに到る構造には、責任の大きさが対応しているということだ。

かように案外想像力を必要とする倫理なので、普通の人には通じない。普通は、でかい責任だけをでかい責任者がとりゃいいと思っているのが庶民である。だから、政治家や官庁のエライ人々は、普通のひとたちが、屡々いきなりトップに直訴してくるのを懼れている(実際に結構あるのである)。田中正造は決死の大ジャンプだったが、案外庶民はお代官様とか上様に訴えることが可能と思っているふしもあるのだ。わたくしは、巨大掲示板とかXとかの書き込みもそんなメンタリティに裏打ちされているところがあると思う。言うまでもなく、公務員を馬鹿にするのはそのせいなのだ。公務員は構造を成り立たせる人だからである。

だから、我々には定期的にゴジラが必要なのである。ゴジラはいきなりでかい責任を示唆できるのだ。好物を食べて静かにくらしていたのに、被爆して裸で近くの島に上陸したらちっちぇえヤリとかでちくちく撃たれたり皇居を避けるのかとか文句をつけられたり、一匹とは思えないとか興行成績が~とかなんかおもちゃにされている彼である、ポルノ映画でも最初から裸でださんだろ――とわたくしがちゃちゃを入れたくなるのも理由があるのである。

我々の意識は、墨子的な迂遠な構造を嫌い、大時代的なものを好む。わたくしも、昨日のJアラートの画面に、なんかナチス風味を感じて少し興奮した。わたくしはそのせいか?、ル・クレジオみたいな作家の良さがどこかしらわからない。今日も『物質的恍惚』を少しよんだが、なんだか大げさだなと思った。

この大げささを藝に変えていた人が、例えば、哲学者の土屋賢二氏である。そういえば、最近のニュースでなんかウケたのは土屋賢二氏がなんか勲章をもらっていたことである。たぶん氏のエッセイのせいで、お名前と勲章の名前だけでなんかウケた。

――故に、その大げさなものから構造的なものに目をうつす手段のひとつが、文章を読むということである。学校の国語の先生が教材の精読というただでも実力に左右される危険な行為をやっている理由は、教科書に縛られているということもあるが、近代の作家の他の作品とか、古典だったら、教科書に載っている部分の続きとかをきちんと読んでないことにある。さすがにそれまずい事態なのである。文章が読めるというのは、いくらかは、その文章以外のことを読んだことがある、知ったという要素に左右される。毀誉褒貶あるところだろうが、文学に狂った思春期の人たちが文章を読めるとは限らないのであるが、だからといって作品をきちんと読めば抽象的に論理構造が読み取れるからそうするべきだというわけにはいかない。その点もある程度は正しいが、ある程度だけだし、興味が持続することのほうが大事だというのがあるからな。。読書は様々な作品の読書によって構造となっているときにのみ、興味の持続が生じるのである。そういう興味は国語の教師の態度になって現れる。作品は教師がある学がある生意気な態度じゃないと、生徒や児童が正しく教師を見捨てられないのである。学校の勉強なんかにかまけてる暇はない。はやく見捨てなきゃだめなのに。見捨てるというのは、読書とおなじく、様々なものとの接触で構造をつくるということである。学校のなかでは、かならずものごとは大げさなものに止まってしまう。

大鏡なんか、花山院の出家の所だけ読んですましたんじゃ面白さが伝わってないと言わざるをえない。