わたしは異国の人としてイギリスに滞在しており、友だちづきあいの炉がわたしのために燃えることもなく、歓待の扉も開かれず、また、友情のあたたかい握手が玄関でわたしを迎えてもくれない。だがそれでもわたしは、周囲のひとびとの愉しい顔から、クリスマスの感化力が輝きでて、わたしの心に光を注いでくれるような気がするのだ。たしかに幸福は反射しあうもので、あたかも天の光のようだ。どの顔も微笑に輝き、無垢な喜びに照り映えて、鏡のように、永久に輝く至高な仁愛の光をほかの人に反射する。仲間の人たちの幸福を考えようともせず、周囲が喜びにひたっているのに、孤独のなかに暗くじっと坐りこみ、愚痴をこぼしている卑劣な人も、あるいははげしく感激し、自己本位な満足を感じる瞬間があるかもしれない。しかし、こういう人は、愉しいクリスマスの魅力であるあのあたたかい同情のこもった、ひととの交わりはできないのである。
――アーヴィング「クリスマス」吉田甲子太郎訳
クリスマスが現実逃避かどうかは知らないが、「現実逃避」し「エヴァソゲリオン」や「進撃の巨人」や大江健三郎やらなにやらに嵌まってしまった試験に墜ちた、どうしてくれる、という人は多いのであろうが、自分を責めなくてもよいである。「現実逃避」が悪いのではなく、その現実とやらに付き合ってたらつまんない時にこれらが存在する。必要だから存在しているのである。こういう文化、ひいてはそれに対する研究を不必要だ役に立たんとか言うのは、すべて受験勉強・就職試験・奴隷労働だけが必要だとかいうど変態サイコパスの主張である。無視して陶然。
逆に、文化に狂いすぎるとある時期の保田與重郎のように、日本滅ぶとも和歌は死なず、みたいなことになり、これは上のサイコパスと同じ程度にサイコパス。実際、学者というより文部官僚なんかにもこういうのが案外いるもんだ。というわけで、案外、有閑階級のルサンチマンなしの文化活動がよいのはそのせいである。
偽の二項対立に巻き込まれると、すべての物事が、「自分が考えれば主観的で確実性がなく、他人が見ると客観的」みたいなものになってしまい、さすがに馬鹿すぎる事態である。超近代だか人新世だかの前にこういうのをやめないから近代ですらないとかいわれるのである。われわれも、いまも、枠小説だから客観性があるとか「言」ってしまってる論文もあるから、油断するとすごく危ない。
というわけで、虚心になって漱石をよんでると、書生・学生というものは、教員の寝床にバッタを入れたり、友人に思い人を譲ったり、猫を煮て食うなど獰悪な種族であるとおもわれてきたのだが、いまもそうであるに過ぎない。弾圧あるのみ。一方、本当に自分以外の物を忘れてしまうタイプもいないことはなく、いまの学者の一部がロケットパンチもだせない正義の味方になっているのは、そこそこ正しいことを折り目正しく書くしかなくなっているからである。学者であっても正しい書類ばかり書いている輩は、実際は役人であり、体制を支えているだけである。わたくしは、役人と結婚したからそれがよく分かるようになってきた気がする。
和歌がコミュニケーションとして政治的に機能していたときなんかが案外、理想的なのかもしれない。すなわち、恋愛の時には和歌を詠むという義務をつくれば少子化対策になるかも知れない。文化の迂遠な感じこそショートカットであって、性格の相性とか思いやりとか絆とかこそ勘違いが許されない反恋愛的なものである。コミュニケーションはいまや衝突ぐらいしかモノとしての実在感に欠けている。――「魔風恋風」にかぎらず、自転車で書生に追突みたいなのが恋愛であろう。交通整理は恋愛の敵である。