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ときには、うまくけりをつけて.....昔よく言ってたように、住民の調停者になるんです。軽い罪ならうまく調停して、裁判までいかないですむようにしてやるんです。別にそんなことしたいと思ってするわけじゃないですけど、十五歳のガキに往復ビンタをはって、そいつのおやじのケツに蹴りを入れれば、それで、どんな訴訟手続のかわりにもなると思いますよ。そのガキが、ちょっと魔がさして、デパートで万年筆を盗んだとしてもですね、そんなのは、とんでもない犯罪じゃないですよ。自転車とか、原付とか、そういうのは車じゃないわけで……友だちにみせびらかしたかったとか、ダンスパーティに行きたかったとか、そんな他愛のないことですよ。それに結局、うちらは、聖歌隊の子どもをあつめて警察やってるわけじゃないんで、警察は人生を生きたことのある人間でやらなくてはいけないんです。
――P・ブルデュー『世界の悲惨Ⅰ』(荒井文雄他監訳)
最後の「ないんで」のあとについている読点が気になったが、この書は全体として情感をつくることに成功しているようだ。月曜日の授業で、ドゥルーズの『シネマ1』における「戦艦ポチョムキン」の分析が正しいのか映像をみながらかんがえたのだが、顔(の消失)による情感は、ほかの様々な映像とともに動いていき、上映した映像は、ショスタコービチのやかましい音楽とともにあるのだ。考えてみると、ブルデューのようなインタビューと解説付きの整頓が必要なこともあるわな、とわたくしはドルゥーズに沿って学生には違うことをいいながら、そう思った。
かくして、ひさしぶりにドゥルーズを読んでみたわけだが、――主旨が分かりやすいかどうかは知らんが、すごく丁寧にゆっくりな論理展開だ。これからスピードを感じる感性はなにか変だぞとわたくしは思った。