
学級委員長にはふつう56人も立候補しないのにすごいな都知事はと思う今日この頃ですが、皆さん以下がお過ごしですか。
とにかく、動物とか稲とかいがいには、人間のせかいすべてが苛々させるものであるところの中年のわたくしであるが、――学会のポスターがかっこよすぎ、発表者や司会の口調がアナウンサー、大学の何かの理念にコミュニケーション能力の文字、拡声器みたいな人がいつも出世、授業料値上げ、知事選めちゃくちゃ、――これらすべて保身のための不真面みたいな原因からきてるとしか思えない。昔なら「性根がくさってる」でおわりである。
中年になってこういう愚痴しか出てこないのでどうしようもないのであるが、――すくなくとも以下の事情ぐらいは分かってくるのが、思春期の人たちや若者によりそうえせ思春期の方々と違うところだ。我々のいろんな性格はいいようにも悪いようにも働く何処に転ぶか分からないものに過ぎないので、いいとこ褒めるとか基本褒めるみたいなやり方は、それがその人の性格だけに対するものになっている限り浅知恵もいいとこであって、たぶん自己肯定感欲しがり病の原因にもなっている。しかも、われわれの見ている世界というのはかなり一部分的なものである。
大学出のみなさんはときどき飲みにでて大学に行ってない人とまざったほうがいい。われわれがコミュニケーション能力とかいっているものがいかに気取った雑なものかが直観される。もちろん、わからんときもある。そして、分かった気がする連中はたいがい悲惨である。えせ吉本隆明なんかがその例である。
しかし明々白々のものが観察されることはある。東大学費値上げ反対座り込みのニュースを、NHKの9時のニュースでやってたが、政府とつるんでるリクルートのおじさんが出てきた。リクルートと言えば、現代の奴隷商人とかひどいことを言われており、また奴隷貿易について勉強したこともない輩が何を言うかと思わざるを得ないのはこの際おいておこう。――このひと、あからさまに原稿読んでいる姿をえんじつつ、自分の意見ではありません的な逃げ道を作りながら、政治と文科省を擁護していた、いやそれにはふれなかった。芸術でも運動でもなんでもそうだが、誰が誰とつるんで何をしようとしているのか可視化する効果がある。責任者でてこいというのがいつもの運動のやりかただが、責任者はなかなかでてこないが、お友達や幇間は出てくる。
2・26事件と同じである。確かに彼らのやったことによって、たくさんの表現が生じた。お友達や幇間も時間が経って明らかになってきている。むろん、首魁は彼らが恋い焦がれる天皇であった。このことによって、自らを引き裂く表現という失恋はしていいのかという課題が生じ、ひいては、三島由紀夫まで矛盾的自己同一的な「自刃」による「道徳的革命」を唱えだす。我々の課題は膨らむばかりだ。――というのは本質であり、現象としては課題はその都度ないことになっている。
三島由紀夫て、評論と小説と別の人が書いている感じがする。そもそもそういう文化的自刃がもう為されているわけだ。三島だけの問題じゃない。戦後の問題なのである。
五社英雄監督の「226」ってたぶん駄作であるが、好きである。首謀者の一人である将校をやっていた三浦友和の、最後のかみしめた「天皇陛下万歳」はわたしがきいたなかで一番の天皇陛下万歳である。当時だって、結局、AIかよみたいな天皇陛下万歳がたくさん発せられていたに違いないとおもわせるものがあるのである。このことと小津映画の棒読みの関係について昨日から考えているのだ。
磯部浅一の「何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです」としかいいようのないものはある。これに比べて、三島の表現や我々の表現こそ「何と云ふザマです」としか言いようがない。
原田宗典は早稲田時代、「政治少年死す」をコピーを持っていた友人から借りて読んだらしい。わたくしは怠惰だったのでちょうど売られていた『スキャンダル大戦争』にのっていたのを読んだ。どっちが文化的であったかはわからない。しかし、原田も私も「何と云ふザマ」ですと言われてしまう気がする。我々は自分で何かをやる気があるのであろうか。読むことも書くこともすべてフェイクではないか。
空海の字がすごいとか思うんだったらAIにたよらず自分でも真似れば良いのでは。将来、空海の字で書けます、というソフトが販売されると、卒業式の看板の字とかをかかせて、「これは誰が書いたと思いますか、空海です」「オオー」みたいなカスみたいなやりとりが出現するのであろう。無様である。