★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

庭の紫陽花――顔

2024-06-08 23:57:49 | 文学


日は茂れる中より暮れ初めて、小暗きわたり蚊柱は家なき處に立てり。袂すゞしき深みどりの樹蔭を行く身には、あはれ小さきものども打群れてもの言ひかはすわと、それも風情かな。分けて見詰むるばかり、現に見ゆるまで美しきは紫陽花なり。其の淺葱なる、淺みどりなる、薄き濃き紫なる、中には紅淡き紅つけたる、額といふとぞ。夏は然ることながら此の邊分けて多し。明きより暗きに入る處、暗きより明きに出づる處、石に添ひ、竹に添ひ、籬に立ち、戸に彳み、馬蘭の中の、古井の傍に、紫の俤なきはあらず。

――泉鏡花「森の紫陽花」


わたくしの庭も森化してきているので、泉鏡花的になっているに違いない。

今日は、ヘーゲル学会と自分のいる学会を往復した。むろん、オンラインなので出来たことだ。あと8ぐらい学会を増やせば、聖徳太子の気分である。しかし、その前に、ドゥルーズが言うように、顔が輪郭を失って、パッションと化してしまうであろう。考えてみると、ドゥルーズが論ずるみたいにシネマじゃなくても、仕事が群衆化してマルチタスクがあまり増えると、なにか顔の崩壊は起こるのではあるまいか。だから、政治家などの顔が悪いのでは。。。