
オイオイみんな気を付けろ。ここに毒茸が固まって生えているぞ。よくおぼえておけ。こんなのはみんな毒茸だ。取って食べたら死んでしまうぞ」
とおっしゃいました。茸共は、成る程毒茸はえらいものだと思いました。毒茸も「それ見ろ」と威張っておりました。
処が、あらかた茸を取ってしまってお父さんが、
「さあ行こう」
と言われますと、姉さんと坊ちゃんが立ち止まって、
「まあ、毒茸はみんな憎らしい恰好をしている事ねえ」
「ウン、僕が征伐してやろう」
といううちに、片っ端から毒茸共は大きいのも小さいのも根本まで木っ葉微塵に踏み潰されてしまいました。
――夢野久作「きのこ会議」
上の怪人は「バンデル星人」といって、キャプテンウルトラという子ども向け番組にでてくるようだ。そもそもウルトラシリーズは子ども向け番組だったのに、さらに子ども向けがあったということがおもしろいことだ。そして、この番組はもはや子どもではなく、初老に入りかけの趣味人の大人がお金を払って見ていると思われる。その実、子どもの向けのつもりが初老向けだったというわけだ。
年末、帰省しない場合は、仕事をしながらその年上演のバイロイトのトリスタンを聴いている。きけなかった次の年は碌なことがありません。この作品も、どうみても中二病みたいな話であるのに、この作品の襲いかかる音の浪が聞き取れるようになるのにわたくしは五十年かかった。
子どもの頃、テレビでオリビア・ハッシーのジュリエットを見て、彼女はまだ若いから将来求婚したくなった訳だが、先日亡くなっていた。このごにおよんでは、天国でのロミオ(Leonard Whiting)の横恋慕を阻止すべくわたくしもはやめに死んだ方が良いかもしれない。奴はまだ死んでないからだ。
かんがえてみると、「ロミオとジュリエット」だって、死が近づいてくるおじさんおばさんにとって切実な話だったのかもしれない。確かに愛と死を真剣に考えるのも若者達だが、彼らの場合、愛の先に死があるようなフロイトみたいな状態にあって、そんなかんじで生きられてはたまらない。結局、それは愛と革命とかいうてなにもせん人たちを増やしただけである。これくらべれば、ナボコフの「ロリータ」の方が実践的な愛の話なのではないであろうか。
生の繋がり関しても、われわれは案外正確な予測をしないものである。落合選手の息子が声優になったのは、父親の映画好きとどこか関係があるのであろう。結局、遺伝子なんかより趣味のような気質の問題の方が大きい。とすると、大谷氏の息子か娘は、睡眠とか犬関係の仕事に就くであろう。大谷君の子どもは、父親の曼荼羅好きをうけつぎ大思想家になるであろうか。
結局、我々は本人の自由には勝てないようになっているのだが、なぜか身近な人間に関しては希望や遺伝子が勝つような錯覚を起こす。我々は考える人間であり、その自由の可能性がない職業には就かない。野球やスポーツには実はその自由があるのだ。しかし、教師はどうであろうか。自由がないところに人が集まったりするはずがない。
そういえば、人間自体も案外自由である。ちゃんと新しく入れ替わっている。人間の細胞は7年ぐらいで完全に入れ替わるとか聞いたことがあるが、七年目の浮気というのはそういうことと関係があるのであろうか。