★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2024-12-08 23:35:45 | 思想


「会社の方も、何処の会社の話を聞いてみても、皆赤字のようだが、ああいうふうに、皆が赤字赤字でやっていて、いつまで続くんでしょうかね」
「温泉へ行ってみて驚きましたよ。たいへんな繁昌でね。どうしてウィーク・デーに、ああ大勢温泉に出かけられるのかと、初めは変に思ったが、聞いてみると、日本じゃウィーク・デーでもそうやかましく言わんようですなあ」
 アメリカの生活は、計画と組織との生活である。そういう生活にすっかり馴染み込んだ一世の人たちが、何十年ぶりかに日本を訪問する。そういう場合には、とくに日本人のこの非計画性が、よほど不思議に感ぜられるのであろう。
 こういう非計画性というのも、結局は、国民が前途に希望をもてない、あるいは持たないところから来ているのではないかと思う。この根元について、何か見通しがつかないうちは、こういうきわめて単純な質問にも、一寸答えられないわけである。


――中谷宇一郎「単純な質問」


そこそこ優れているひとのなかにも、自分はすごくうまくいってなくて、と常に思いがちな自意識の人はよくみる。そのなかには、いちいち相手の素養を見誤った発言をしてしまうタイプがいる。相手がボケてくれているのが分からないのだ。いったい、われわれが物事を把握出来るとはどのようなことであろうか。

それは、学者や学生の注釈への依存みたいな現象についてもいえることである。例えば、卒業論文にあまり実証の厳密性だけをもとめすぎるべきではないのは、大学生のそれをやりきる実力の問題でもあるけれども、本質的にはそうではない。感想文だめエビデンス命みたいな理念に依存している人間というのは、端的に気が★っているといってよいからだ。証拠に頼らなければ物が言えないというのは、A=Bに依存するチェスタトンの言うような狂気なのである。これはたぶん、Cの欠落に因る。

我々は内戦の思想についてよく考えてみるべきであった。内戦は、国家が国民であるという依存が崩れたときに起こるのであろうが、なにより、個々のA=Bが何の依存性を持たずに自走し始めることを意味している。AとかBだって、何かのCに依存していたのだ。

ショスタコービチの交響曲がくらくてながえとか言っている人は、ぜひ「新バビロン」をBGM代わりに聞いてみて欲しい。妙に明るくて長くて途切れない心地よい拷問が続く。ショスタコービチの交響曲といえど、四楽章交響曲が要求する様式的な思想の縛りのおかげでその「くらくてなげえ」程度に済んでいたということを意味している。

「おれはどうもこの自動扉というやつが、好きではないんだ」「何故です?」「自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、なんだか変だ。うっとうしくて、かなわない」

――梅崎春生「記憶」


この不安は、戦後の雰囲気を良く伝えている気がする。いったい、戦後という時代は何が興っていたのであろう。例えば、最近の教育界のトレンド、――個々の最適化と協働を矛盾なく説明しようとすると、結局、国家総動員しかないようなきがするのであるが、教育はいまくいかないという根本原理がわれわれを自由にする(わけないだろう)。考えてみると、国家総動員自体が、理念Cとしての明治維新以来の国家の崩壊を意味していたのであろう。無媒介のA国民=B兵士ということを束ねるしか策がなかったのだ。

むろん、A=Bだって、強制には違いない。Cの欠落は、結局はA=Bだって崩壊させる。例えば、半分しか理解出来ないのならえらそうな質問やコメントをすべきでない、みたいな自明の理が通らなくなったのは、確かにAだがBみたいな諭し方が一般化した事とも関係があると思う。こんなとき、Aのほうしか記憶しようとしなくなるのは当然ではないか。AだかBみたいなのは、それを支えるCがない。結局、それはデマゴーグに感じられてくる。だったら、はじめからAに居座っても同じではないか、という。

Aの偏重は、相手の言うことBを理解できなくする。結局、誰でも質問していいよ的な話し合い至上主義みたいなものは、Bの無視の許可なのである。これを大学教育にもちこむと、個ではちょっと失敗続きの人間が質問で逆に目立とうとするのでいやである。正直、わたくしは、かかる人間にはマイナス点をつけているので問題ないが、一般的にはそうなっていない。質問はできるし発言も出来るんだけど、演習の発表や課題はだめ、仲間はずれをすぐつくりたがるなどの現象を、頭が悪いからだと言うことは簡単だが、――教育者は、上の二者がどこかしら具体的内的関連をもつということまで考えなきゃならない。教師の側も、その面倒くささから逃避し、観点別評価ににげがちである。

差別をどうなくすかみたいな問題もそうだが、差別をなくせと説教(A)してどうにかなる部分が過大評価されている。教育なんかだと、知識偏重よりコミュニケーションみたいな旗を振って、どうにかなる部分が過大に想定されている。人間の内面や実力をなめてかかっている為業と言ってよいと思うが、結局、上のようなカラクリが関与している。確かに差別はしないんだが仲間はずれをしたがるとか、被差別部落には反対だが、「エタという身分」とか平気で書いてしまうとか、結局、教育が本質に対するものになってないとこういう現象がいくらでも出てきてしまう。子供によりそうみたいな表面的なやり方でこれがどうにかなると思うか?なるはずがない。

残酷なようであるが、左に書いてある文字を右に正確に書写する(比喩ではない)みたいなことをできるようにするなんてのが、上への対処の第一歩としては大事なことだ。実際、そういう正確性がないので何をやってもふらふらした感想しか定着しない場合はどんどん話がややこしくなる。善良だけど差別主義者、差別主義者だけど博愛主義者みたいな人間が増えてしまうわけである。コミュニケーションなんか夢のまた夢である。