★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「我が物にして首尾を仕掛けける」現代

2024-12-28 23:19:57 | 文学


「いかにしてか、奥さまの髪の事を殿様にしらせて、あかせまして」とおもふより、飼猫なつけて、夜もすがら結ひ髪にそばへかしける程に、後は夜毎に肩へしなだれける。
 あるとき雨の淋しく、女まじりに殿も宵より御機嫌のよろしく、琴のつれびきあそばしける時、かの猫をしかけけるに、何の用捨もなく、奥さまのおぐしにかきつき、かんざし・ごまくらおとせば、五年の恋、興覚まし、うつくしき顔ばせかはり、絹引きかづき、ものおもはせける。 その後はちぎりもうとくなり給ひ、 よの事になして御里へおくらせける。 その跡を我が物にして首尾を仕掛けける。


上のような悪い女の、髪の毛作戦はともかく、いまだに女性のロングヘアは美のアイテムであって、そういえば最近は高校生の髪型など平安朝の貴族みたいになっている。初音ミクの髪の毛も半分重力に逆らうが如きである。

来年度、少しボーカロイドにふれた授業をしなきゃいけないので、初音ミクなどについての参考文献などを調べていたんだが、アマゾンで売ってた初音ミクの応援水着はさすがに買わなくてもいいだろという研究者にあるまじき倫理観が発動したので、少しオチツケということで、東大の「ボーカロイド音楽論」の本を買っただけにして置いた。

サブカルチャーの本は、東浩紀の動物とポストモダンの影響が原点にあるからか、あるいは、宮台真司のサブカルチャー分析が雛形なのか知らないが、妙な論理的なところとサブカル的な蓮っ葉な――はっきり申し上げれば幇間的な雰囲気が同居している。来年の授業のテクストにしようかと『現代の短篇小説ベストコクション2024』などをよんでいると、ある小説においては、論理的なかんじとコミュニケーションみたいなかんじがぴったり合っていて、なるほどこの二つを実現すると戯作になるんだなと思った。近代の小説とは、これへの抵抗であったにちがいない。そこにある種の論理性を求めるときには気を付けなければならない。

それはそうと確かに現代の小説の役割はたしかにある。ときどき近代から離れて、現代の小説を読むと、じぶんが「現代」なんてほとんど分かってないことが判明してショックである。歳とってくると、よけい、人間かくも過去に対する認識の歪みが甚だしいことがわかり、過去の小説を読まずにはいられない。――メディアなんかだと、昔の教育は暴力容認だったが今は違うとか平気でいっているがウソもいいところである。人間はその同時代にあっても認識はえられず、もっと歪んだかたちで記憶を呼び出しているに過ぎない。「記憶」に正確であろうとしているのは現代に即しようとする小説の分野しかない気がする。詩や短歌は、――確かにそれぞれ違うけど、思ったよりもある種の普遍性や時間を超えた何かに向かう傾向がある。これはこれでしぶとい。現代性にする四重否定ぐらいになっている。

すると、はたして研究論文などはどうなのであろうか。今年の久谷雉氏の詩集とか普通に傑作だったわけだが、研究書や論文で「普通に傑作」があり得るかどうかは若い頃からひっかかっているのだ。むかしは、前田愛とか指導教官の論文とかを一生懸命書写したものであるが、論文としての、あるいは論理としての「傑作」というのものとそれらは違った。ただ、論者たちにはたしかに傑作を書いてやろうという意識があったようにおもう。そしてわたくしは、そういう論者しか面白く読めない気分がずっとある。

思うに、少し昔の論文や評論には、耐久消費財としての矜持があったと思うのである。それは文学の思考として思考した痕跡としての耐久性である。しかし、ふつうは論文はそうではなく、事柄の差異=改良性としての独創性をほこるものである。最近のパソコンとかエアコンとか壊れやすいものばっかりだが、これは明らかに売るために何か改良しましたといわなければならないために開発されているからである。学会発表でこんなこといったら馬鹿扱いされかねない「記号の差異化の競争」を地で行っている。もちろん研究や創作もそういうことになりかねないのは自明の理である。