わたしは雪の中をあるくのが好きだが、あるきながら、いろいろの光線で雪を見るとうつくしい。足がふかくもぐるからあるきにくく、くたびれるので、ときどき雪の中へ腰をうずめてやすむ。眼の前にどこまでもつづく雪の平面を見ると、雪が五色か七色にひかっている時がある。うしろから日光がさすと、きらきらして無数の雪のけっしょうがみな光線をはねかえし、スペクトルというもののようになる。虹いろにこまかく光るから実にきれいだ。野はらをひろく平らにうずめた雪にも、ちょうど沙漠のすなにできるようなさざなみができて、それがほんとの波のように見えるが、光線のうらおもてで、色がちがう。くらい方は青びかりがするし、あかるい方はうすいだいだい色にひかり、雪は白いものとばかり思っていると、こんなにいろいろ色があるのでびっくりする。
――高村光太郎「山の雪」
「アルプスの少女ハイジ」のパロディである「マッド・ハイジ」というのがある。この前見たんだが、良かった。スプラッターが我々の邪念をはね飛ばし、愛と自由に導く。もちろん、暴力をともなっている。我々は、果たしてこういう精神の回路しかもちえないのであろうか。
戦後に、暴力によって革命に至ろうとした人たちがいたが、当然失敗して葛藤を抱えながらバブル以降を生きた。彼らの子供たちであるわれわれもその中で思考した。しかしわたくしも、20代の頃、『情況』がこんなに続くとはおもなかった。私の予言ではずれた多くのなかの一つである。
暴力を否定していたら、当然の如く、学校の暴力性も去勢され、学校自体が揺らぎ始める。もちろんこれはそれだけではすまない。学校的世界の稠密度は、文壇みたいなものに思い切り裏返って反映する。学校の没落を喜んでいる場合ではないのだ。だからといって、文壇のような旧弊が終わったわけではない。普通にかんがえて――文壇みたいなものはいまも存在している。世の中が学校的になっていると同じ意味で、文壇的になっただけだ。膨張化である。わたくしは、文学フリマとやらは、その膨張化を否定しようとする新手の中央集権の何者かだと思っているのだ。
このような膨張化のなかで何起こったかと言えば、内戦が、マイノリティとマジョリティの闘いとしてイメージされるようになった。そこでは昔のルサンチマンが動力になった。うちの学会にもなにか世の中では日陰者みたいな意識が残っていると思うが、ある別の業界の論文をよんでいたら、もはやじぶんたちは別の★の人みたいなもので、と述べていたものが結構見つかり、びっくりした。どうみてもいま流行の学問ではないかとおもうのであるが。だから彼らはマイノリティとマジョリティの図式を使うのか。。