圏点も無用、註釈も無用、ただひたすらに心を耳にして、さて黙って引退ればよい。事情既にかくの如し、今さら何の繰言ぞやである。
とばかりも言っておられまいから、些か泣言を並べることにする。飜訳をしながら先ず何よりも苦々しく思うのは、現代日本語のぶざまさ加減である。一体これでも国語でございといわれようかと、つくづく情なく思うことがある。たかが飜訳渡世風情が何を言う! と諸君は言われるか。悪ければあっさり引退りもしようが、では誰がこのぶざまな国語の心配をして呉れるのか。
――神西清「飜訳遅疑の説」
高峰秀子がどこかで言っていたが、引退というのは潔さにある。したがって、人生100年みたいなものは、概して多くの人々の未練がましさとセットであると覚悟した方が良い。一生懸命やっていない人間に限って引退しても何かと参加したがり、周りのレベルを下げてしまう残酷さ。しかし、そういう現実はあまり否認すべきではない。一方で、若者が高齢者に依存しているとしても、である。
教師をやってると哀しいことが多いが、一番の記憶は「いつの日か、先生みたいな弱者の味方の先生になりたいです」とか、卒業のときの色紙か何かに書いていた学生のことである。この学生にとってはいろんな意味でそれはかなり難しい希望だった。教師はいろんな形で模倣されてしまう。その模倣は昆虫のように擬態とはならない。心だけが模倣しようともがく。
弁証法みたいな思考方法が普遍的でないのは明らかだが、社会が我々にそれを体現せよと要求してくる。弁証法の理解として、すぐ合してまた正と反とがでてみたいなモデルは普通に考えたら怖ろしいわかるのに、教育においてはすぐ合したがる、すくなくとも合と言いたがるというはある。むしろ合=揚棄しない自由があるのは一方的な講義とやらのほうである。コミュニケーションはほとんど弁証でもなければ、キャッチボールでさえない。
明治の男たちなんか、弁証法的ではなく、A=Bの連続である。伊藤博文はたしか「国是綱目」で、「ワガ皇国数百年ノ継受ノ旧弊」とかいうており、A皇国=B旧弊であるから、――実に不敬であるからいまからでも遅くはない、逮捕すべきである。むろん、これが逮捕されるようになるには、時間がかかるのだが、かならず実現してしまうのである。例えば、森有禮の簡易英語論もそうである。採用されておればたしかにやばいにことになってたのは誰でも予想出来た。だからやめたが、現代において「わかりやすい日本語」とかにはみな反対しないのは狂ってる。しかし、森のB呪いが復活しただけである。