★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死生観と世紀末、その後

2024-04-23 23:23:47 | 文学


「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」
 と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、

「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

 死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」
 これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。

――「源氏物語」(與謝野晶子訳)


日曜日の大河ドラマは、病気で倒れたお姫様を王子様がだっこして看病という少女漫画シーンがすごかったが、その前の、子どもがばたばたしんでゆく場面が悲しかった。我々の感情移入は自分の体験に大きく左右される。我々は虚構に慣れたということもあるが、子どもの死に滅多に出会わない。これが我々の心体に何らかの影響を与えないはずがない。前にも書いた様に思うが――、戦前までの昔の人と我々の違いは、年寄りの死に対するよりも、弱い子どもが死んでゆくのをどれだけ目の前にしたかで大きく違っている。而して、我々は死をはじめとする否定性から遠ざかり、否定性を通さずに生が成立していると思い込む。

それは医学の発展のせいだけではない。そういえば、定期的にKO大学関係者の不規則発言やら悪事がでてくるが、学問のすすめよんでみりゃ、すべての悪事の萌芽が書かれているのだ。古文や和歌は楽しみで学問じゃねえ的なのもこいつからだし。勝手に日用の学問でもしてろよ。文学が否定性の坩堝であり、これを元に我々がその都度生き返っているのを知らないのか。

月曜日は、「推し」現象研究に作品論的なものは有効かみたいな講義をして、その先祖の一部かもしれない、東浩紀氏の『動物化とポストモダン』は倫理学にどれだけ接近しているのかをただひたすら喋った。わたくしが気になっているのは、「推し」という行為のあまりにも楽天的な肯定性であって、これがかえって、必要でない否定性=死を招くということだ。「推しの子」なんか、死ななくてもよい主役を殺すところから始まっている。

身軽になると言うことは、ただひとりの自分になることだ。それは言うまでもなく、余りにつらすぎる。

――梅崎春生「無名颱風」


戦後がまだましだったのは、あまりに死を経験すると生どころじゃなくなる絶望から出発したからだ。これがただ生きること、堕落を生きるということであった。

不思議なことに、大戦争を経験しなくなっても、われわれには何か末世や「世紀末」を待望する観念的なバイオリズムが備わっている。オウム真理教はその意味真面目すぎてバカをやったが、同時代の「エヴァンゲリオン」とかそれに影響されたSFっていうのは、「世紀末芸術」だったのである。だから新世紀にならんとそれを作った作者は新しく出発できなかった。そして、これもさんざ言われているんだろうが、最近は「失われた時をもとめて」の時代である。プルーストのこの作はちょうど百年前ぐらいなのである。「葬送のフリーレン」とか「推しの子」とかみんな失われた時を求めて、である。いままで山田玲司氏のラブコメはスポコンだと思って読んでいたが、最近の「CICADA」は、我々の漫画文化が死んだ後のディストピアを描き、時代に巻き込まれている。たぶん作者としては、まだ終わっていない漫画家としての抵抗なんだと思うが。。

――我々の観念的な生理である100年の前半は回想から始まるのであった。


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