★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

みこしまくりと人間まくり

2010-07-24 16:49:02 | 神社仏閣
私が長野の木曽福島の生まれであることは前に書いたが、毎年7月22、23日は水無神社のお祭りである。白木で毎年約100貫の御輿をつくって町を練り歩くのだが、なぜ毎年つくっておるかと言えば、とりあえず町を一周して盛り上がってきたところで、はじめは横に、最後は縦に転がしてぶち壊してしまうからである。

平安時代に、木曽の宗助と幸助という匠が飛騨の水無神社に出張していたところ、そこで一揆があった。こりゃ御神体があぶないという言い訳をつくって木曽に運び出そうとしたところ、国境の峠で村人に追いつかれてしまい、もみあった末、「まあいいか、まくって(転がして)いきゃ」ということで、木曽の谷底まで、御輿ごと転がして追っ手から逃れた、らしい……のである。

というわけで、「ソースケ!コースケ!」と町中の人が囃し立てる中、100貫の御輿を(←宗助と幸助は人間じゃないな、こんな重いもの担ぐのも転がすのも二人じゃ無理だぞ)夜が更けるまで、まくるのだ。「みこしまくり」といいます。

こんな感じ

http://www.youtube.com/watch?v=-wb62xtCUFM&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5u0elapqwIU
http://www.youtube.com/watch?v=D3bcxnyrrJ8

中に入っている?御神体がどういう気持ちなのかは暫し置いておくと、とりあえず、飛び散る木片に御利益があるらしく、100貫の物体が転がされていく非常に危険な状況にも関わらず、町中の人が木片をせしめようと群がるのである。町の人の家の神棚に凶悪な形の木片が置いてあるのがそれである。間違えて仏壇に入れておく人もいるらしい。最近は、外国人とかも「トレビアン」とか「オーマイゴット」(←神様違い)とかいいながら、町民でもないのにどさくさに紛れてくすめようとするらしい。

最後、担ぎ棒だけになった御輿を歌を歌いながら神社に返す。このときの歌がなかなか悲しげでいい感じでなのであるが、いわば、夫婦喧嘩でものを壊したあとの感傷というやつであるな(←違います)

坂口安吾が書いた飛騨高山の歴史もので、天皇家ともつながる渡来人の匠たちが空想されていた。「夜長姫と耳男」の匠・耳男もちょっと日本人離れした容貌をしているという設定である。これまた人間離れした美しさと残酷さをもつ夜長姫に対抗して、耳男は耳を切り落とされたあとも、殺した蛇を部屋中に吊しながら憑かれた如く作品製作に没頭する。宗助幸助もそんな輩かもしれぬ。飛騨や木曽には、いろいろ政治的な事情のあった先祖をもつ方々がいたのかもしれない。木曽といえば伊勢神宮のご神木が育つところで知られていようが、漆器産業の地でもあって、実は私の三代前もその産業に従事していた。職人一家が離散し、別の職人一家に養子に入ったのが私の祖父であった。美男子で非常にもてたらしいが、背が低すぎて戦争には行かず、ずっと国鉄で働いた。父は国鉄を蹴って大学に行って小学校の教員となった。私は木曽を出て教員採用試験は受けずに放蕩のあげく×川にたどりついた。このように辿ってみると、宗助や幸助にまくられたのは御輿であろうが、人間自身も御輿のようにまくられ、転がされていく運命なのであった。確かに諸行無常であるな(←最後は仏教(笑)


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