★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

主体性の時代

2025-01-23 23:43:33 | 文学


キチガイもはいれる
アンポンタンもはいれる
オンナもはいれる
シスター・ボーイもはいれる
ケイカンもはいれる
ゴロツキもはいれる
ヨクバリの穴
政治の穴
革マルの穴
民青の穴
無関心の穴
教授の穴
伝統ある早稲田大学総長は
諸君の不満と断固たたかう
バリケードをつくれ!


何周まわってかわからないが、関根弘の上の「新入生歓迎偽総長告示」なんかがおもしろくなってきた。関根のいいところは、新入生みたいなものでも職業みたいにとらえているところかもしれない。真の差別的労働者インテリだ。

蔑視がなぜ怖ろしいかというと、蔑視された方が自分の経験を汚点として経験し直すからである。たしか、横山百合子さんの『江戸東京の明治維新』にそんなことが書いてあった。その点、藤村の「破戒」の丑松なんかまだそのスティグマとしての経験からの脱却を志向してるとは言える。急に物事は進まない。藤村を超克しようとした中上健次なんか、高度成長に煽られたのか、急ぎすぎた。火曜日に、江藤淳の『作家は行動する』を授業中に音読してて、やっと彼の言っていることがわかる気がした。これは案外、声に出して読みたい的な、行動する文体なのである。行動とはやってくる特急列車に呆然とする横光利一とは違い、自らのスピードである。中上は、この延長線上にあった。

ストコフスキーの指揮するショスターコビチの「レニングラード交響曲」を聴いているとまるで映画音楽のような抑揚の付け方だが、彼は映画音楽の作曲家だから、案外こういう感じの曲なのかもしれない。それは音楽の主体的スピードではなく、人びとが観る映像主体のスピードに似た音楽なのである。ショスタコーヴィチは明らかに、労働者=職業人としての音楽家だったとおもわれる。

これにくらべると、トランプなんかは、ビジネスマンというより、ある種の通俗哲学の実現――主体的な学び・思考、みたいなものの権化である。思考から彼の言葉は放射されている。「考えること」が、きちんと丁寧に書いたり、物事を現実的に計画したりすることよりも、なにか高度なことだと思っている、これ頭がわるいというより、タチが悪い考えと言ってよい。これはコモンセンスに属するものだったはずだが、それをはずれると「主体的な学び」みたいな感じになる。

こういう主体性が跋扈しはじめると、我々はつい、自暴自棄になり、我々は生きてると悪いことするから、もう死んでいる人がおれたちよりもどんどんよい人になっていくよどこまでも――などおもいはじめて、過去に遡り始める。もっとも過去にはこれまた悪い事例が英雄面して存在している。我々は、ポストモダンの相対主義を否定して、言葉の奥深く歴史の潜るのだが、勢い、現実の「主体」的軽薄さの馬鹿よりも真面目になる。そして、この真面目さも案外、精神の自由を失わせる。このことは、八十年前ぐらいに経験済みである。

真面目にならざるえないのは疲れてもいるからだ。今更気付いたのだが「お前の代わりはいくらでもいる」の時代はおわっていて「お前の代わりがいない(死んでも、いや死なずに)働け」の時代になっている。しかも、これを言っているのが、教師や医者たちである。こういう表現ですら、今の時代の、なにかの代替物なのだ。言語は代替物だから、それへの我々の執着を利用して、三木清や花田などがよい理念への修辞への解放を唱えたりするわけだが、彼らは自らの良心を前提にしすぎた。レトリックの邪悪な社交性は軽視しない方が良い、当事者主義の時代には、修辞はたいがいマウンティングの道具として使用されている。確かにそういう例も少なくないようだ。


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