今日は教科内容学のFDがあったので、ちょっと顔を出してみた。ちょうど国語科内容学演習を担当しているし、なにか面白いことを言う方がおられるかと思って出かけてみたのである。
私の長い塾講師とか非常勤講師の経験からすると、例えば中学校の国語をまぁ自信を持って教えることができるかもしれないと思ったのは、博士課程の後半ぐらいからであった。これは教育技術の向上も関係してただろうが、文章が読めるようになるためには、それぐらい学術的な読みの訓練が必要であったということである。方法そのものより「頭」の問題なのだ。もし、中学生ぐらいだったら、学部の勉強で十分と自信を持って言える人がいたら、よほど力があるのか、文章を読めていないことに気がついていないかどちらかである。私の経験からすると、後者が圧倒的に多い。とすれば、教職に就く人間を全員、文学部や理学部の博士課程に放り込まなければならないのか?いまのところ現実的には無理であろうから、学部の教育を最大限レベルを上げてかかるしかないと思う。少なくとも国語に関してはレベルを下げるのはあり得ない選択である。当の教育のために現実的でない。
今日話題になっていたのは、教科専門の授業を「教科内容学」という形で練り直すことであった。どうも外からの要請は、教科専門の無駄な専門性を「教科内容」というパッケージに落とし込むことで枝葉を切り落とすべき、といったニュアンスらしい。教科によって違うのかも知れないのだが、上記の理由により、これは非常に危険な発想であると私は思う。
だいたい、その「教科内容学」は、教科専門の教員と教科教育の教員が対立するという「観念」から導き出される心理的軋轢を強引に止揚しようとして出てきた発想ではなかろうか。実態としては、そんな対立は明瞭に存在しないにもかかわらず、仮想の対立に煽られた心理が、仮想の統一物に実態を与えようとする良くあるパターンである。例えば、それは、認識の型として、西洋と東洋の対立を満州で止揚しようとしたこととほぼ同じである。だいたい、対立が存在するとしても、一般論として、対立して当然のものは対立させておいた方が生産的である、というのが大人の常識というものである。なぜそれが忘れ去られているのであろうか?
音楽のI先生の報告は、具体的で面白かった。「さっちゃん」の前奏に、ワーグナーの専門家によってこそ見出される和音が使われていた場合、これを認識できるのはI先生のような専門家である。音楽の面白さというのは、このような認識からもあり得る(というか和声が認識されるというのはそのようなことである)ので、教科専門の教員が存在することの意味はそこにある、とI先生は言っておられた様にみえた。私もその通りだと思った。で、仮に「教科内容学」みたいなことを考えるとして、小学校の音楽の教員はその和声をどう認識しておくべきか?それをどのように大学の教員は伝えるべきか?と私は質問してみたが、I先生はちょっと迷っているようにみえた。私が思うに、あまり迷う必要はなく、音楽の教員は和声の感覚が良いことはもちろん、和声を歴史的に知的に認識できる人間でなければならない、少なくともそのような方向でこれからは進むべきである、ということでよいのではないか。音楽も文学もそうだが、演奏者や作曲家・作家だけで成り立っている文化ではなく、批評的な認識があってこそ発展するものだし、教員は少なくとも芸の師匠ではなく認識を伝える人間であるべきであるから。だいたい、奇妙な和音を奇妙な和音といっただけでは「奇妙な和音」として捉えることは出来なくて、ワーグナーのことを話した方がその奇妙さが印象づけられるに違いない。「ごんぎつね」がいかに奇矯な話であるかは、話を読んでいるだけでは気づきにくく、森鷗外や宮沢賢治や芥川龍之介を勉強した方がよいのと同じだろう。……どうもI先生を迷いに追い込んでいる現実の方が間違っているような気がする。
……というのが、私の感覚であるが、一点だけ気になるのは、次のことである。私が小学校の教員の息子であり、教育は徹頭徹尾子どもたちのために行われなければならぬという哲学を生活感覚でたたき込まれているから、逆に教員の頭脳の問題を課題にしたがるのかもしれないということである。(付記:というわけでもなさそうだ)
私の長い塾講師とか非常勤講師の経験からすると、例えば中学校の国語をまぁ自信を持って教えることができるかもしれないと思ったのは、博士課程の後半ぐらいからであった。これは教育技術の向上も関係してただろうが、文章が読めるようになるためには、それぐらい学術的な読みの訓練が必要であったということである。方法そのものより「頭」の問題なのだ。もし、中学生ぐらいだったら、学部の勉強で十分と自信を持って言える人がいたら、よほど力があるのか、文章を読めていないことに気がついていないかどちらかである。私の経験からすると、後者が圧倒的に多い。とすれば、教職に就く人間を全員、文学部や理学部の博士課程に放り込まなければならないのか?いまのところ現実的には無理であろうから、学部の教育を最大限レベルを上げてかかるしかないと思う。少なくとも国語に関してはレベルを下げるのはあり得ない選択である。当の教育のために現実的でない。
今日話題になっていたのは、教科専門の授業を「教科内容学」という形で練り直すことであった。どうも外からの要請は、教科専門の無駄な専門性を「教科内容」というパッケージに落とし込むことで枝葉を切り落とすべき、といったニュアンスらしい。教科によって違うのかも知れないのだが、上記の理由により、これは非常に危険な発想であると私は思う。
だいたい、その「教科内容学」は、教科専門の教員と教科教育の教員が対立するという「観念」から導き出される心理的軋轢を強引に止揚しようとして出てきた発想ではなかろうか。実態としては、そんな対立は明瞭に存在しないにもかかわらず、仮想の対立に煽られた心理が、仮想の統一物に実態を与えようとする良くあるパターンである。例えば、それは、認識の型として、西洋と東洋の対立を満州で止揚しようとしたこととほぼ同じである。だいたい、対立が存在するとしても、一般論として、対立して当然のものは対立させておいた方が生産的である、というのが大人の常識というものである。なぜそれが忘れ去られているのであろうか?
音楽のI先生の報告は、具体的で面白かった。「さっちゃん」の前奏に、ワーグナーの専門家によってこそ見出される和音が使われていた場合、これを認識できるのはI先生のような専門家である。音楽の面白さというのは、このような認識からもあり得る(というか和声が認識されるというのはそのようなことである)ので、教科専門の教員が存在することの意味はそこにある、とI先生は言っておられた様にみえた。私もその通りだと思った。で、仮に「教科内容学」みたいなことを考えるとして、小学校の音楽の教員はその和声をどう認識しておくべきか?それをどのように大学の教員は伝えるべきか?と私は質問してみたが、I先生はちょっと迷っているようにみえた。私が思うに、あまり迷う必要はなく、音楽の教員は和声の感覚が良いことはもちろん、和声を歴史的に知的に認識できる人間でなければならない、少なくともそのような方向でこれからは進むべきである、ということでよいのではないか。音楽も文学もそうだが、演奏者や作曲家・作家だけで成り立っている文化ではなく、批評的な認識があってこそ発展するものだし、教員は少なくとも芸の師匠ではなく認識を伝える人間であるべきであるから。だいたい、奇妙な和音を奇妙な和音といっただけでは「奇妙な和音」として捉えることは出来なくて、ワーグナーのことを話した方がその奇妙さが印象づけられるに違いない。「ごんぎつね」がいかに奇矯な話であるかは、話を読んでいるだけでは気づきにくく、森鷗外や宮沢賢治や芥川龍之介を勉強した方がよいのと同じだろう。……どうもI先生を迷いに追い込んでいる現実の方が間違っているような気がする。
……というのが、私の感覚であるが、一点だけ気になるのは、次のことである。私が小学校の教員の息子であり、教育は徹頭徹尾子どもたちのために行われなければならぬという哲学を生活感覚でたたき込まれているから、逆に教員の頭脳の問題を課題にしたがるのかもしれないということである。(付記:というわけでもなさそうだ)