大学院の最後の授業では、小熊英二の『1968』と吉本隆明の「マチウ書試論」を比較して話をする。吉本が摘発するコンプレックスによる観念秩序の生成は、小熊にも吉本にもあり得る。吉本に於いては罵倒の重奏の中に、小熊に於いてはこの本の重さの中に……。というのは冗談でもあり、半ばそうでもない。私は授業のなかで、そうではないものとしてニーチェの「反キリスト者」を推したが、これもまたそう言ってしまうとそうでもない気がしてくる。
いずれにせよ、この三者を並べてああだこうだと批評するのは、いわば内ゲバである。我々が普段要求されるのは、もっと低次元の事柄である。しかしこれも小熊英二並みの量を持ってくると、質に転化している。質になったというのは、別に迫力を増したというのではなくて、一つ一つが劣化していることによって量を支えているのである。