★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

中野天満神社を訪ねる(香川の神社31)

2017-09-08 20:26:41 | 神社仏閣
学生の公開授業を見てから神頼みに行きました。学校の裏には――みんなが受験の時に急に縋り付く中野天満神社があります。わたくしは、受験には運の作用があまりないと思うので、――公開授業みたいな他力本願的な行事こそ神頼みが必要だと思うのであった。

 

仙★氏をさておいて讃岐で威張って頑張っておった松平氏は学問好きであった。何しろ、天領となって水戸から松平が来る前の生駒さんの騒動は、概略だけ辿ってみてもありゃりゃ的な感じであって、やはりお馬鹿はだめということを高松藩の皆さんは悟ったに違いない。

しかし、中野天満神社を今の位置に持ってきたのは、その騒動の発端である生駒高俊さん。彼は、政治をやらず美少年を踊らせて遊びまくっておった。しかし、政治なんかつまらん、別にいいじゃないか。神坂次郎は調子こいて「うつけ殿」なんとか、という本を書いている(読んでないが)。まったく、政治家が浮気すりゃ吊し上げる如きつまらん人生を送っている庶民に民主主義をやる資格なし

しかしまあ、讃岐はすっかり人生楽しんでなんぼの精神をすっかり去勢され、天領となる。でかわってやってきた松平頼重さんはいかなる人かと言うに、光圀公の同母兄。徳川頼房が堕ろせと命じたのを側室が言うこと聞かずに秘密に出産して生まれたのがこのお方。馬鹿騒ぎドラマに代わって昼ドラですか。――頼重さんは頑張って勉強し、讃岐を与えられる。そのあと、「後に実子の徳川綱方、徳川綱條が光圀の養子となり、水戸藩の家督は綱條が継ぐ。一方、頼重は光圀の実子・松平頼常を養子に迎え、延宝元年(1673年)に家督を譲って隠居した。元禄8年(1695年)に没した」(ウィキペディア)。さらっと書いてあるが、なんかまたすごいことになっておるな。結局、高松は水戸黄門のDNAの支配下に。

と先走りすぎたが、結局、そのガリ勉松平さんが敷地を大きくしたのが今の中野天満神社である。

が、しかし、高松空襲によってその神社は吹き飛ばされてしまったのであった。

高松の歴史は悲惨すぎるな――、木曽では江戸時代の地層から矢じりが出てくるというのに。やはり★石氏から讃岐を取り上げたお猿秀吉が悪い。

で、出来たのがいまの神社であって、来たるべき絨毯爆撃にそなえて、かどうかしらないが、なんと全部コンクリートで出来ているのだ。戦前の昔、筧克彦という、その傑作『古神道大義』が岩野泡鳴によって批判された東大教授がいた。もはや、ゴジラ対メカゴジラみたいな論争であったが、それはともかく、その筧さんは、「神社は焼けない」というアホでも分かる嘘を述べていて、この天満宮は、その筧さんの意見を真っ向から否定しているといえよう。さすが学問の神様、馬鹿は相手にしないようである。


土というものが全くない神社ってすごいよね……


善光寺参りの牛より泰然自若としておるな……なんで牛?(すみません無知でした。頼朝が奥州に行った時に、夢の中に牛に乗った道真が現れて「願いが叶うよ」と言ったらしいのです。頼朝と言えば、木曽義仲・義経を陥れたやつであろう。信用なりまへんな……。牛も変な願いを聞き届けてんじゃないよ


いないいない


ばあ(注、左に上から目線でそびえ立つのは県庁)

 
これは安政年間のもの――高松空襲でも燃えなかったのだね


ふり返ると鳥居

境内末社があります。
 
後藤芝山神社――、後藤芝山は藩校の総裁ですね。横にあるのは筆塚。軍旗塚より違和感がなかったのはわたくしがペンで人を攻撃する輩だからでしょう。




木のシステムはここだけで、むしろこれが


地下の駐車場で、こんな感じに。

果たして、道真とか後藤とかは神なのでしょうか?学問自体を神にすべきです。人じゃなくて……。まあ別にいいです、学問よりも大事なのは、なんだろう――


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