現実の人間や事実や感情と、創作された作品と、どちらがより深く人の心を捉えるであろうか。この答えは、両者の性質によって、また答者によって、さまざまであろうが、結論に飛べば、現実同様の或はそれ以上の迫力を持てと作品に要求されている。同じように、作品からじかに来る想念と同様の或はそれ以上の迫力を持つように、文学論に要求されている。このことは、純理的にはおかしい。だが真理でもある。おかしい真理が成立するところに、文学の生き物たる所以があるのであろうか。
――豊島与志雄「作家的感想」
最近のニュース、火事とか殺人事件とかフジ・ナカイとか、まったく不思議でもなんでもない事件ばかりで、結論がでてるのをいちいち大げさになぞりやがって「猿かに合戦」の方がよほど意外性がある。
お爺さんとお婆さんがなぜか桃太郎を手に入れて侵略者を育ててしまう意外性に比べれば、お爺さんたちが記者会見で10時間さらし者になるぐらい現実的すぎて眠くなってくる(夜だから)。抑も、フジのおじいさんたちかわいそうみたいな意見があるらしいが、じぶんがとしをとってきたせいか、あの程度はおじいさんたち」ではないと思う。おじいさんはもっと上だろが人生100年だぞ(棒読み)
テレビがエンタメでも報道でもなく、なんか動く下品なショーウインドーになっていたのはみんな感じてたことであろう。既に、とっくに映ってるのは人間ではなかった。リアルでも人間扱いされているはずがない。わたしの周りだけかも知れないが、フジテレビの女性のアナウンサーが実際はアナウンサーじゃねえなみたいな蔑視にあっていたことは明らかだったが、――次第にそれはもはやフジだけじゃねえぞみたいな状況になったときに、逆に本丸においても、倫理が更に緩んでもっと劣化した、女子アナじゃなくて「ただの女子」だろうあいつらはみたいな扱いが加速した可能性はあるとおもう。
いっそのこと、全てが明らかになるまで三年ぐらい記者会でも何でもやってくれていい。それのほうが人間らしい。誰が明らかにするのか知らないが。こういう掟で動いてきたような業界をどう扱うのか、マスコミや芸能界はちゃんと学ぶべき、――というかまずは「勉強」すべきで、むやみに謝罪会見と鴻海リンチばかりしているのも、それ掟みたいなものである。人民裁判ですらない。記者会見中の質問で、渦中であるところのフジの社会部が、自分たちは厳しく社会不正を追及してきました、みたいなこといってたので笑ってしまったが、だからといって、マスコミ以上の取材力と頭脳がSNSにたくさんあるはずがなく、フジはつぶれてかまわんが、そのあとどうするのだ。
組織をぶっこわすのは簡単だが、造って動かすのは大変だ。コンプラ道徳はおしえても、そういうことを教えられなくなった社会は悲惨である。
たとえば、キュビスム運動を代表する最大の詩人アポリネールは、その詩のなかで繰り返し未来に言及している。
私の若さが倒れたところに
あなたは未来の炎を見る
あなたは知っているはずだ
私が今日、全世界に
予言術がついに生まれたと伝えることを
二〇世紀初めのヨーロッパに収束したこれらの発展は、時間の意味も空間の意味も変えた。それらすべての発展が、さまざまな形で(冷酷な場合もあれば希望に満ちた場合もあった)、直接性からの解放、不在と存在との厳密な区別からの解放をもたらした。(伝統的な表現を借りれば)「遠隔作用」の問題に取り組んでいたファラデーが最初に提示した場の概念が、一般に認知されることもないまま、あらゆる計画や計算のなかに、あるいはさまざまな感覚のなかに入り込んだ。こうして人間の力や知識が、時空間を超えて驚異的に拡張された。その結果、全体としての世界が初めて抽象概念ではなくなり、現実のものになった。
――ジョン・バージャー「キュビズムの瞬間」(山田美明訳)
キュビズムの時代から一般化したその遠隔作用が予言や魔法でないような空間は、現実の謝罪会見の空間を侵すことはできない。おそらくは、マスコミや芸能に関わる人間たちは、蜻蛉のような作用の飛翔に飽き、直接性に惹かれている。彼らが娑婆の人間でなくなるのは、彼らが単に共同性のあり方として掟に縛られたヤクザだからというわけではない。キュビズムは20年も経たずに恐怖の空間に取って代わられた、それとおなじことが人の内面でも起こるのである。