私の考えるところでは、フランスの「哲学」という教科が執拗に残っているのは、もちろん哲学者の必死の抵抗によるものでもあるんだろうが、ほとんど陳腐なまでにそれが習慣化しているからである、といえなくはないと思う。はい、日本でそれに当たるのは何か。たぶん、微妙にそしてあからさまにいやがられながら続いている「国語」です。「源氏物語」や「羅生門」、「城の崎にて」が
いじめや心の闇への逃走、殺人をも恐れぬ達観などの西洋哲学と野合した日本の哲学を哲学を語っているのである。最近はセンター試験までも
まるで呪術みたいな文芸評論を小林秀雄を出題して本懐に返ろうとして居る。確かにこれは西洋人からみたら得体の知れぬものにみえるに違いなく、ここ二十年の「国語」への攻撃は、国語を日本語と言い換えて何か批判した気になっている馬鹿や母語はコミュニケーションの道具だとかスターリンまがいの見解に落ち込んだすっとこどっこいを中心に、苛烈なものがあった。問題は、戦いに疲れないことである。西山氏が世界を飛び回って疲れないことを祈りたい、そんな気がした本であった。