★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

あ~こりゃこりゃ

2013-07-18 23:12:53 | 文学


今日は、講義で、市立図書館で借りてきた『幇間』のビデオを少し観た。吉川英治の『松のや露八』への導入としてである。結構面白かった。近代文学の勉強のためには、伝統芸能の勉強が欠かせないが、こういうビデオは案外効き目があるものである。テキストはどんなにがんばっても現在の我々の頭で翻訳されてしまうので……

それにしても、比喩的な意味での、現代の幇間についてはまた別に論じなければならない。比喩的でなくても……、吉川英治は、なにやら旗本出身の幇間をドラマチックにセンチメンタルに描いたけれども、その実際はどうなのであろう。吉川英治はこのあと「宮本武蔵」に行ってしまうわけであるが、なぜ彼が「貧の意地」や「小暴君」の方向性に行かないのか、これは重大問題だと思う。そんなことを授業で語ろうとしてチャイムが鳴った……。

♪よく見たら
♪ひきがえる

♪あ~こりゃこりゃ

介抱位ゐはされたい心地を起すかも知れないなどゝ

2013-07-17 09:27:53 | 文学


服部君は語尾をふるはせて、物音い泣笑ひをつくつたが、やがて後をも見ずに前のめりに駆け出して行つた。
 森野は「ホガラカ」の窓が見える横町の角で服部君の戻りを待ちながら、不図自分だつてもしも楽屋の素顔を知らずに「エミさん」を見たら、介抱位ゐはされたい心地を起すかも知れないなどゝ思つた。同時に服部君もエミさんも堀田ラフトも、そして自分も、何となく「紙一重」の差異もなく平等に、酷く気の毒な人物である――などゝいふ風に順々と想ひ浮かべて、白々と酔つてゐる頭を微風のある夜気の中に風船のやうに漂はせてゐた。

――牧野信一「街角」

日本語ノ淫猥ヘノ奉仕

2013-07-16 19:40:25 | 文学


高橋源一郎本人が言っていたか、内田樹が言っていたか忘れたが、小説家でさえエロを描くとそのときだけ文章が突然巧くなるという。文豪谷崎には失礼だが、彼の小説についても、そのことを、日本人の文章について考えている身としては考慮しとかなければならない。もちろん田山花袋でなぜ「蒲団」と「少女病」が……、という理由についても同じである。上は、西原神が昔写していたとかいう方の漫画であるが、名文連発ですばらしかった。

哲学への権利――文学への権利

2013-07-15 23:33:30 | 文学


私の考えるところでは、フランスの「哲学」という教科が執拗に残っているのは、もちろん哲学者の必死の抵抗によるものでもあるんだろうが、ほとんど陳腐なまでにそれが習慣化しているからである、といえなくはないと思う。はい、日本でそれに当たるのは何か。たぶん、微妙にそしてあからさまにいやがられながら続いている「国語」です。「源氏物語」や「羅生門」、「城の崎にて」がいじめや心の闇への逃走、殺人をも恐れぬ達観などの西洋哲学と野合した日本の哲学を哲学を語っているのである。最近はセンター試験までもまるで呪術みたいな文芸評論を小林秀雄を出題して本懐に返ろうとして居る。確かにこれは西洋人からみたら得体の知れぬものにみえるに違いなく、ここ二十年の「国語」への攻撃は、国語を日本語と言い換えて何か批判した気になっている馬鹿や母語はコミュニケーションの道具だとかスターリンまがいの見解に落ち込んだすっとこどっこいを中心に、苛烈なものがあった。問題は、戦いに疲れないことである。西山氏が世界を飛び回って疲れないことを祈りたい、そんな気がした本であった。

わるでぼろで

2013-07-14 14:58:11 | 映画


「ワルボロ」を授業で使おうと思って観たのだが、下手するともう少しで「三丁目の夕日」になりそうな勢いの、きれいな絵のような映画で、不良映画も美しくなったものだと思った。西原神理恵子も保母役で出てて、なんだか演技が上手くなってきているようだから腹が立つ。

裏の草原に行かねばなりません

2013-07-12 13:58:20 | 文学


「今から裏の草原に行かねばなりません。どうぞ遊びに入らっして下さいね」
 と云ううちに、二人の姿は消えてしまいました。うた子さんはハッと眼をさましましたが、この時やっと気がつきまして、
「それじゃ、水仙の精が遊びに来てくれたのか」
 と、夜の明けるのを待ちかねて草原へ行ってみました。
 草原は黄色く枯れてしまっている中に、水仙が一本青々と延びていて、青と赤と二いろの花が美しく咲き並んでおりました。

――夢野久作「青水仙 赤水仙」